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「ラミレスが語るギターの世界」ラミレスIII世 [序文]
この小冊子は、過去数年間における私の小文をまとめたものである。 それらの大半は色々な国の雑誌からの要請、ギターに関する本の著者からの求めに答えて書いたもので、中には大学の学位論文を完成させたり修正するためのものも含まれている。 私にとって、著述は特に魅力のある仕事とは言えないが、私の責務を出来る限り果たすよう務めてきた。 それは、ギターに関する想像以上の無知、それがギターの取り扱いにもたらす過ちについて特に動機づけられたからで、適切な保管、ギターの歴史の過去と現在、良い楽器の評価の仕方などについて書いてきた。 私は擦弦楽器、特にヴァイオリンについて、多数の製作家によって書かれた膨大な資料があるのを常々羨ましいと感じてきた。 それらは、長年に及ぶ経験について書かれたもの、専門的著者たちへの目録、真正証明書、評価などを忠実に提供したものであり、真摯な研究の助けとなるものである。 不幸な事に、ギターにはこれらの資料が無い。 ギターの製作・修理についての著作を私は未だ知らない。もしあるのなら、すでに知られているはずである。 この小冊子は、どちらかといえばギターの取り扱いと保管を主題としているが、これがヴァイオリンに関する膨大な資料と類似の資料の始まりとなるよう希望する。 というのは、今日までにギターについて書かれたものは、大半がコレクションとか、あまり正確でない歴史などで、補修に関するものは無いに等しい。しかし少なくともそれらは、私が追求しようと試みている事柄への序章となるものであり、何人かのギター愛好家による賞賛に値する努力と言える。 これらの著作を出版するのは、私に関して出回っている不愉快な風評を否定するためではなく、そのような目的のために機会を空費するつもりはない。 それら風評の一例は私が既に故人だというもので、もしそうなら、私は書く煩わしさなどと無縁の幽霊ということになる。 1990年11月14日の今日、私は68歳で、これらを書いている事により健在であることを証明する。 手作りでなくても質の高い仕事が可能であるとでも言うかのように、私のギターは機械で作られたものだと断言する人達もいる。 木というものは不均質、不安定、そして大いにてこずらせる材料であり、機械がいかに完璧でも、高品質の楽器を製作する上で含まれる無数の要因に適応するのは不可能である。そんな訳で、大量生産の機械製ギターのどれ一つとして、手工品が生む音量と音質を達成することはあり得ない。 それはプロシャの大軍勢に“白鳥の湖”を優雅に踊ることを期待するようなものだ。 私が幾つかの機械を使うのは本当だが、それは質や高い技能を必要としない初期の荒い工程に対してのみで、その他の作業は全て手仕事によるものである。 私の使用人は、起こり得る全ての事例を勘案した私の厳密な基準に基づいて作業する。そして何か問題が起きたときは私が対応している。 最近、私の指は若干硬くなっており、しばしば店頭での仕事に差し支えるため、この重要な仕事を息子のホセ・ラミレスIV世に委ねてきている。 息子は私が教え込んだ事柄に加え、自身の経験を重ねているので、私と同じ程度の技量を持っている。 私は、私自身に関する事や私の仕事について、ここに記述した全ての事柄の根拠を示すことができるし、必要とあれば、反論し得ない証拠として、風評、嘘、そして私についての悪口、ある不快なギター製作家、それらをことごとく否定する事ができる。今に至るまで、私はそれらに何の注目も払ってこなかった。 これまでに、ギターの歴史について書くよう再三求められてきた。部分的には書いてきたが、私の見解では、この楽器の誕生から詳細な歴史を書くのは不可能である。そうした歴史の基礎となるべき事柄は、大いに疑わしい推論や仮説に過ぎない。 ビセンテ・エスピネルが登場した16世紀以降になって始めて、信憑性が確認できるようになったのである。 私の考えでは、ギターはその他の弦楽器と時を同じくして生まれたもので、新石器時代にある人間がたまたま中空の入れ物に弓の綱を結び、偶然に綱を振動させた。 弓を射たとき、男はいつもの風音が増幅され、しかも耳に心地よい音を発した事に驚いた。 恐らく、最初の弦楽器はそうした出来事で誕生した。 同じような音楽の天才が、弓の半分を胴体の側面に繋ぎ、一本かそれ以上のぴんと張った弦を胴体の中央部に結びつけて、ハープを発明した。同じような事が、スペイン北部の洞穴やメソポタミアやブラックフォレスト、そしてその他の場所でも、ほぼ時を同じくして起こった可能性がある。 次に起きた事は、弦巻のついたネックを胴体に取り付けたことに違いない。弦は胴体の中心に付けた駒に結びつけられた。 これらの弦を違った場所で押さえ、その長さを調節して弾いたとき、それらは異なった音を発し、最初のギターと最初のギタリストが誕生した事になる。残念ながら、この発明が起こった時期を5千年から7千年の時限内で特定できていないし、その地域も特定できない。しかしながら、最も原始的な胴体は亀の甲羅、空洞のある木の幹、半分に割った瓢箪など、そしてネックは単なる棒、共鳴板は薄い獣皮だったと仮定する事ができよう。これらの“楽器”はむしろ打楽器として作られたと思われるが、掻き鳴らすようにも意図されたに違いなく、それらは原始的な文明世界では今日まで残っている。 こうした進化の最終時期、多分それは青銅時代だが、胴体は既に薄い木板で作られるようになった。 ネックは完成され、このような構造をもつ楽器がギリシャ、エジプト、そして中近東の浮き彫り、絵、壁画、壷絵に現われ始めたが、それらは背景をなすのみで、それらの詳細を研究するとか進化をたどるのは不可能である。 ある賢い“製作家”が、丸い穴を持った楕円形の胴体が良く鳴るのを発見し、別の人が2個の胴を繋いだ方が更に良く鳴ると確信し、窪みを持たせ、小さい方の胴に響穴を、そうして大きい胴にブリッジを付けたのだろう。 紀元前5世紀のアッシリアに、少なくとも判定可能な限り、こうした特徴を備えた浮き彫りが存在する。 歴史を通して、これが現在の真正のギターに最も近似したものだが、この腰部を持つ胴は半分に割った瓢箪で作ったものだったと推定できる。ともかく、この小さいモデルは大流行したものではなく、少なくとも広い地域で使用されることはなかったに違いない。なぜなら、何世紀も後にならないと同じ物がどこにも出現していないからである。 以上ことが歴史に類するものでないのは明白だ。全てが類推とか仮説に過ぎないが、少なくとも流布している“ギターの物語”に対しては多大の信頼性を与えるもので、信頼性に足るデータというよりは善意を含むものと認識する。原初の正確な名前すら知られていない:ツィター、シタラ、等などである。ギターの歴史は、ギターそのものと同様に神秘に満ちている。 確信をもって言える事のひとつは、アラブ人がギターをスペインに持ち込んだとする話が全くの虚偽だということである。アラブの最も重要な楽器はリュート、あるいはルース(アラブ名はアル・ウド)で、大きい楕円形の胴体、空洞、および頭部がほとんど真っ直ぐに付いた短いネックを持ち、1弦を除いて複弦の8あるいはそれ以上のコースを持つ。より初期の楽器は、もっと弦が少なかったと考えられる。 この楽器は真のアラブの楽器でない。それは紀元1世紀にアルメニアのキリスト教社会で生まれたもので、アラブ民族がそれを採用し、今でもアラブ音楽の最も重要な楽器である。 しかし、ギターや、それに類似したものは用いられておらず、もし彼らが原始的なものであれ、ギターをスペインに持ち込んだのなら、故国に帰ってからもなんらかの形でそれを保存したに違いない。 それにひきかえ、リュートはヨーロッパ全域に広まった。それらはある面でスペイン系アラブ人がヨーロッパ大陸で強い文化的影響を及ぼしたこと、またある面では十字軍がそれを持ち帰ったことに理由がある。 スペインにおいては、この楽器は適切に保存されなかったが、おそらくアラブへの敵愾心のためだろう。 リュートという名称は、平坦な裏、頭部がほとんど真っ直ぐに連結されたネック、6本の金属複弦を持つ楽器を指す。 この楽器の職人を意味する“リューデロ”という単語は、Royal Academy of the Spanish Languageには載っていない。 これは殆ど注目が払われなかった事を意味していると思われる。しかし、リュートあるいはルートを作る人を意味する“ルシェール(リューティエ)”という単語は、木製の弦楽器の修理・製作者を指すものとして世界中で知られている。 ギターの話にもどるが、中世になるとヨーロッパ中の寺院やその他のロマネスク、ゴシック建築の数多くの浮き彫り、あるいは写本の細密画から豊富な資料が得られる。 それらのギターは細長い楕円形の胴体、1個あるいはそれ以上のサウンドホール、そしてかなり長いネックを持つものだった。 腰部の窪みは明確でなく、それが当時のギターの特徴であった。 宮廷製作家の権威が確立される以前に、材料から“ビウェラ”(小さなギター)を製作する方法を知っていた人にナイトの称号を授与した13世紀のアルフォンソX世(賢帝)の法令がなかったとしたら、私は当時腰部の窪みはなかったのではないかと推測する。 とはいえ、貴族の“ビウェラ”は、わずかな腰部窪みを持っていた。ギターは“ビウェラ”を単純化したものから生まれたと益々確信するようになった。 “ビウエラ”は複弦楽器のため弾きづらいので、4本の弦を持ち、歌の伴奏のために掻き鳴らせる小さくて弾きやすく、受け入れられやすい楽器にしたのだろう。 もはや、事を複雑にする理由はない。こうした原始的なギターは今日においても存在していて、アラゴンの“レキント”、カナリア諸島の“ティンプル”、ベネズエラの“クアトロ”(4弦ギター)、ハワイのウクレレ、そして中央ヨーロッパの同種の楽器である。 現今のギターは16世紀の終わりに、非凡だが同時にスペインの黄金時代に典型的な一人の男によって考案された。彼は冒険家、神秘家、詩人、武士、享楽的女道楽家、音楽家で作家であり、限界に挑戦する人物だった。彼の名はビセンテ・エスピネルで、1550年ロンダ(マラガ)で生まれた。その冒険の数々を振り返って見るのは興味深い。 彼はサラマンカ大学で学び、ギター(4弦しか持っていなかった)と詩をこよなく愛した。素晴らしい歌の数々を作曲し、その活力と、外交的で享楽的性格、そして悪戯好きと相俟って、その町の人気者となった。彼は宗教裁判においてフライ・ルイス・デ・レオンを擁護する学生決起で活躍したが、それが大学の2年間の閉鎖に至った事を考えると、大騒動だったに違いない。 彼はギタリストとして生計を立て、4弦ギターが音楽的に優れていることを認めていたが、それは主に爪弾き用に考案されたものであり、かき鳴らしに向かなかったため、彼は5番目の弦を追加し、後にそれについて記録に残そうとした。 彼はセビリアに移住し、来る日も来る日も愉快に過ごしたが、少しその度が過ぎた。突然神秘体験に襲われ、全てを悔い改めて司祭となり、後に生誕地のロンダで司祭職を得た。 しかし定住生活は性に合わず、しばらくの間レモス伯爵の従者を務めた後、イタリアに旅立ち、ミランの統治者メディナ-シドニア公爵に仕えた。 その地で輝かしく音楽的技量を完成させ、イタリア中を旅したが、そうした冒険の果てにセルバンテス同様、アルジェリアの海賊の虜となった。 しかし、セルバンテスよりは幸運なことに、アンドレア・ドリア大将のジェノバ艦隊により即時に解放された。彼は歌の数々で有名だったので、水兵達が捕虜の中から直ちに見つけ出し、もてなした。 相変わらず落ち着くことなく、彼はフランドル地方へ行き、アレハンドロ・ファルネシオの軍隊に入隊し、兵士、ギタリストそして詩人として冒険の頂点に達していたに違いない。彼は常にふたつの選択肢を持っていたので、自らをうまく守り、ほとんど傷めつけられることがなかった。カトリック神父だったので結婚はできなかったが、それが彼を失望させたとしても、彼には常に剣があった。 彼はマドリードに帰り、アルカラ・デ・エナーレス大学で修士の学位を取得した。過去の神秘主義が再び身をもたげ、ふたたび神父の仕事をし、マドリードで司祭の職に就いた。外遊の間、彼はロンダの司祭職を保持していた。ロンダの宗教仲間達は、彼の乱れた享楽生活に憤慨し、その職からの追放を試みたが成功せず、奇妙な事に今日でも彼の像がそこに存在している。 魅力、音楽そして詩で彼は全ての人達の寵愛を得、アルバ、レルマそしてメディーナ-シドニアの公爵達、レモン候らの保護を受けた。 彼は有名な小説“従士マルコス・デ・オブレゴンの生涯”を書いたが、その大部分は自伝との仮説があり、当時の最も傑出した小説と考えられている。 加えて、他の小説や重要な文学作品も加えられねばならない。詩において、彼は“デシマ”(10行の8音節連)を考案した。 これは一種の韻律であり、直ちに大成功を治め、カルデロン・デ・バルカが直ちにそれを取り入れた。 同年代の重要な作家は皆、彼との親交を請い求めた。 セルバンテスは彼を“賞賛に値する友”と呼び、ロペ・デ・ヴェガはこのギタリストに感銘を受け、“比べ様のない技量”について語り、彼を“音楽の父”と呼んだ。ケベドやゴンゴーラも誠実な友人だった。 彼に敬意を表し、この“デシマ”は“エスピネラ”と呼ばれた。要するに、彼は芸術家、天使そして俗物の性格を程よく兼ね備えた特異な人物である。 この5弦ギターは4弦ギターより若干大きな胴体を持っていたに違いなく、追加弦のためのスペースとして、より広い指板を持っていただろう。 この弦は、今日我々が言う第5弦とは別のものだった。弾くことによってエスピネルに広範な音楽表現を許したのは、今日の第1弦だった。当時の4弦ギターの標準的なチューニングは、A,D,G,Bだったが、5番目の弦E(実際には第1弦)を収容するよう大きくされた。こうしてその演奏方法が根本的に変わり、結果として音楽的に向上したことから、私はこれが真のギターの誕生と考えている。エスピネルと彼が作ったギターを知る術がないのは実に残念である。 エスピネルは誠に気がかりだが、ギターの歴史を続けよう。17-18世紀を通して、ギターは5弦が維持されたが、それはほとんど常に複弦だった。恐らく”ビウェラ”を奏でるのと同じテクニックを使うため、あるいは複弦の方がより豊かな響きが得られると信じられていたためと考えられる。 1674年にはガスパル・サンスがギターの奏法を確立し、1679年に彼の極めて貴重な作品も含めて出版している。 しかし、当時の資料はやはり僅少である。私はこのギター教本の初版本(恐らく唯一のもの)を所有しており、それはギターが当時真摯に扱われていた事の証拠である。 ルイス・ミラン、カベソンらのギター音楽がこの頃に作られた。 最も注目すべきはスペイン以外に、太陽王ルイ14世のフランス王室のロベルト・ビゼー等のギター作曲家が現れたことである。 これはギターの改良が始まった頃の、この楽器の一般性を的確に示している。 18世紀の終わりに第6弦が追加されたと推定されているが、誰が発案したかは分かっていない。 それが司祭で優れた音楽家だったバシリオ神父だったという人もいるが、それを支持する確かなデータは無い。徹頭徹尾、ギターという楽器はは神秘性を示し続ける。 単弦が再度採用され、6番目の弦は第1弦の2オクターブ低音のEで、真の6弦となり、標準的チューニングがE, A, D, G, B, Eとなった。 それらのギターは比較的大きいホールを相手にせねばならなかったので、19世紀終わりに出現したアグアド、ジュリアーニ、フェルナンド・ソルらのマエストロやコンサート演奏家達は、当時の製作家達に音量のある楽器を製作するよう圧力を及ぼし始め、カラーセド、ジョレンテ、パノルモ等を使した。 次に登場したのがトーレスで、19世紀の中葉に現在のギターの基礎を確立した。 これを基としてギターは進化を続けており、マドリード派はその発展で重要な役割を果たしている。1 8世紀にヴァイオリンが到達したように、ギターが完璧な楽器となるにはまだまだ遠い道のりを要すると思われる。 読者諸氏が忍耐強く本書を読み続けてくださるなら、私の試みと苦心についてお話ししたいと思う。 各所で同じ事を語るのに気づかれるだろうが、それは以前に書いた記事を再編したくなかったからである。 「ギターのこと」ラミレスIII世
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