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「ラミレスが語るギターの世界」ラミレスIII世 [フラメンコギター]

フラメンコギターは、フラメンコという独特な芸術との僅かな絆を維持している。
フラメンコギターはこの芸術の重要な一部をなすが、フラメンコ芸術は伝統に覆われたもので、神秘的ともいえる性格を持ち、このためある種の“呪文”を湛えているとしばしば言われる。
このため、フラメンコギターはその歴史を通して変化を受け入れることはほとんどなく、クラシックギターが容易に吸収した技術的進歩を、フラメンコギターが受け入れたのは非常に稀である。
たいていのフラメンコギター奏者は、前世紀の後半に形が固定して以後、ほぼ一世紀の間、殆ど変わらぬ姿で存在し続けたある形態のギターにこだわりを持つ。

フラメンコギターを理解するためには、その歴史を通してフラメンコギターが進化を遂げた雰囲気を、皮相的にであれ、知らねばならないと思う。
私自身、フラメンコ“熱愛者”であり、そうあり続けている。
これは一見容易にみえるかも知れないが、掘り下げれば、この芸術が含むものを多少とも感得し、フラメンコなるものが稀にしか許容しない、あの曖昧な“熱愛者”というタイトルを獲得するには、長年の献身が必要なのである。

フラメンコの性格は、余興や楽しみとしてなら陽気なものであるが、芸術的には非常に高度なもので、酷評から無条件な絶賛に至るレベルが頑固なほどに格付けされる。
この芸術に秀でる人への妬みのかけらもない驚くべき序列は、常に重視される。
フラメンコは非常に迷信に満ちていて、そのためある種の美しい“カンテ”(歌)が、“不吉”と考えられるとの理由で聞かれることが少ない。まったく同じ理由から、(裏板と横板の話だが)真正のフラメンコギターは殆ど常に白木、大抵はシープレス、例外的に楓で作られている。
黒い色の木で作られているギターは、“黒”ギターで、そのため“不運”をもたらすとされる。

フラメンコはジプシーに根ざしたものと広く信じられている。
ジプシーがフラメンコの情緒・創作面で推し量れない貢献をしてきたと述べるのが公正とはいえ、彼らがフラメンコの根本的創始者ではない。

フラメンコの起源は記録に残る前に遡り、十分に根拠のある見解によれば、その起源の一つは古代ギリシャの信仰行事の歌とリズムである。
カディスならびにその周辺がフラメンコの生まれた地域である事、そして正にこの都市がスペインにおけるギリシャの移民地であった事実を忘れてはならない。
他方、ヘブライならびにアラブ音楽もまたフラメンコの土台をなしているが、ギリシャ音楽がそれら音楽形態に影響を及ぼした事は心に留めねばならない。
ジプシーが15世紀に始めてスペインに来た時、彼らの大多数がアンダルシアに留まり、その地の音楽を取り入れた。
同じことはハンガリーに移住したジプシーについても言い得ることで、彼らはその国の音楽を吸収し、自らの情緒様式を吹き込み、今日ジプシー音楽(Zigan)として知られている世界に貢献した。
奇妙なことに、ハンガリのジプシーとスペインのジプシー達は、お互いの古代語(カロあるいはロマニー)を用いて比較的容易に理解し合うのだが、音楽面においては、ハンガリージプシーはヴァイオリンでボヘミア旋律を奏でるのに対し、スペインジプシーはギターでフラメンコ音楽を演奏する。

過去数世紀の間にどのようにしてフラメンコが進化したかを突き止めるのは不可能である。
楽譜を整える試みがなされたのは比較的最近になってからの事で、それも殆ど成功の見込みが無く、録音がなされたのも近年の事に過ぎない。
フラメンコの過去の全ては、殆どが覗き見ることの出来ない神秘である。
この過去を理解する助けとなる若干の言い伝え、多少の文章を知るに過ぎないが、それらは殆どが法律みたいな重みを有する。
それら文章の一つは、“本物のフラメンコを聞くため、必要な人達は1本の傘の下に収容しえる人数である。”
この見解は前世紀の中ごろに始まったに違いなく、私が知る限りフラメンコがその進化の頂点に至った時期で、私の個人的経験に基づけば、これは今日でも正しい。フラメンコの集まりは(普通夜の事だが)、一人のギタリスト、二人の“カンタオール”(歌い手)、一名はアンダルシア南部のカンテのスペシャリストで、もう一人はレバント(東部)カンテの専門家、そして二名の熱愛者からなる。
これが相応しい人数なのである。
二名のギタリストは、特にカンテの伴奏において、各人が異なる様式の演奏のスペシャリストである場合に容認され、最大限三名の熱愛者が許容される(四人は許しがたい騒動を引き起こすだろう)。

こうした集い、あるいは“フラメンコ祭り”は、儀式と非常に似た一連の行動をたどる。
親しい会話、ギターによる“ファルセータ”(和声進行)、“カンテ・チコス”(軽妙なフラメンコ)、もっと重々しいカンテ、そして集まった人達に不可思議な魔力が降り注ぐ瞬間がついに訪れる。
彼らの周りの空気を形容しがたい何物かが包み、微かで魅惑的な光に照らされ、比べようのない美への高揚が始まり、全ての事物が異なった光の下で見られる。
カンタオールとギタリストが、自分たち自身の芸術から、より大きな愉悦を導き出そうとするのは正にこの時で、熱愛者達がそうするのではない。
遂に荘厳で深遠なカンテが、相応しい威厳の全てを伴って演出される瞬間が訪れ、そよ風に伴われて窓からは夜明けが遠慮がちに差しこみ始るのだが、恐らくそれはそこに投げ込まれた呪文に誘われてのことに違いない。
というのは、その呪文の存在に恍惚があるから。遠い過去の忘れ去られた先祖達がたどたどしく入ってきて来る。
そのぼんやりとした亡霊が魂の耳に語りかける-情熱、挑戦、恋、戦い、犠牲、勇猛な行動-そうした木霊を。

全員は沈黙の中で引き上げる。陳腐な世間話を発するのはぶち壊しとなる。
なぜなら、それらは蜘蛛の糸のように壊れやすい呪文を壊してしまうからだ。
数時間後に目覚めたとき、ソレアの繊細だが心を締めつける旋律が魂の中に漂い続ける。

今日においてはごく少数の人達しか知らないこのフラメンコの記述を行う必要があったのは、この様式の芸術が前世紀後半を通してどんな風に現われ出たかのイメージを読者に提供する為だった。
自然なことだが、そうした小さい集まりでは、用いられたギターはサイズが小さく、軽くて甘い音のものだった。
私はアントニオ・トーレスが1862年に作った(シープレス)1本のギターをコレクションとして所有しているが、弦長が650mm、胴体幅が238mmならびに312mm、そして横板の平均幅が94mmのものである。
当時トーレスは現在のギターと同じサイズのクラシックギターも製作していた事を考慮すれば、ギター製作家たちがフラメンコギタリストから扱い易い、小型で軽量のギター製作を依頼されていた事が明らかとなる。
そんな訳で、カラセド、ジョレンテ、パヘス、その他の当時の製作家達が作ったギターは、そうした特徴を備えたものであった。彼らにはそれ以上のものは必要なかった。

前世紀終わり頃になると、少数だが比較的大人数の聴衆を収容する“カフェ・デ・チニータス”とか“エル・ブレロ”などのフラメンコ“タブラオ”(小劇場)が生まれたことで問題が生じた。
フラメンコがその隠れたプライベートな範囲から出て、大人数の公衆に晒される事となり、ホールで演技されることになると問題はさらに明白となった。
何名かの偉大なフラメンコ芸術家が、こうした挑戦的な時期に適切な活躍をしたことに言及すべきとは言え、伝統的フラメンコギターは非常に困難な状況に陥った。
あるフラメンコグループで、4、5名のギタリストではその音楽を聞かすには不十分となった。
何故なら、ギターの音が“パルマ”(手打ちの音)や“タコネオ”(踵打ち)でかき消されてしまうからだった。

その当時、私の祖父ホセ・ラミレスI世は、恐らく最も傑出した製作家だったらしく、彼らの問題を解決してもらえるよう、ギタリスト達から選び出された。
トーレスは世を去って久しく、私の祖父が“タブラオ”ギターを考案したのはそうした時期の事で、それは音量を大きくする為、ずいぶん大型の胴体を持つギターだった。
この楽器の内部構造はトーレスの標準に合致するものだが、その寸法はこの有名な製作家の作品に比べより大型だった。
コレクションの一部に、祖父が1918年に製作した“タブラオ”ギターを持っているが、白木メープルで作り、弦長650mm、胴体サイズが280mm、380mm、横板の平均幅が84mmのものである。

この様式において、祖父は横板幅を狭くしたが、多分それはギタリスト達が弾き慣れていたギターと余り違和感を持たぬようにしたためだろうと述べておきたい。長年このギターはフラメンコギタリスト達の問題への解決となった。深く根ざした伝統から、彼らはこの小型で甘い音色のギターに憧れたに違いないと想像する。祖父の様式のギターに、より良い表現の可能性、そして上述した環境での傑出した鳴りを見出したのだろう。

当時、祖父の最も傑出した弟子は実弟のマヌエル・ラミレスだった。
徒弟時代のある時期、マヌエルは兄であり教師だった祖父に、パリで身を立てる計画を持っていると打ち明けた。
彼の特質だった気前の良さと親切心の全てを以って、祖父は祖叔父マヌエルが計画を実現すべく、犠牲を払って援助した。
しかし、全ての用意が整った時、私には一切明かされる事の無かった何事かが起った。
祖叔父の偉大な人格を考えに入れると、それは不可抗力だったに違いない。パリは行かず、マヌエルはマドリードのアルラバン通りで独立した。
この事から兄弟の間に深い敵愾心が生まれ、互いの頑固な気質のゆえにそれは時が経つと共に益々深まった。
この状況は二人の死に至るまで続いた。
二人を直接知る機会は無かったが、この亀裂の記憶は私にとって常に痛ましいもので、生涯を通して続くものだろう。
彼らに対する知識は全て家族、友人あるいは弟子達から学んだもので、この兄弟に関して学ぶほどに、二人を益々敬愛するに役立つものだった。
マヌエル・ラミレスは仕事で独立した後も、兄のギターと同じタブラオモデルの製作を継続した。
私は1900年に作られたマヌエルのギターを所有しているが、上述した祖父のギターと殆ど同じである。

しかしマヌエルは若く、しかも強い創造意欲を持っていたので、自身の判定基準に従ってほどなくフラメンコギターの改良に取り掛かり、遂にこの楽器の理想的なモデルとして確立され得るギターを作り上げた。
今日に至っても、このモデルは殆ど変更されず、徹頭徹尾伝統にこだわるフラメンコギタリストから無条件に受け入れられている。
マヌエルのギターは、ギターの進化の時期に相当し、1911年に製作された私のコレクションは以下の寸法を持っている:弦長655mm、胴体幅278及び364mm、横板幅の平均は90mm。内部構造はトーレスの標準である。

その頃までには祖父は重い病を患っていたが、自分の大いなる成功-あの“タブラオ”ギター-に固執していた。
それは全く変更を受けず、ずっと信奉者を持っていた。
しかしながら、こうしたファンも次第にマヌエルの創作品へと転換していった。
幸運な事に、末期になっても祖父は多数の信奉者を持ちつづけていた。


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