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第11章 タルレガのギター

タルレガは最初のトーレスギターをセヴィリアで1869年に手に入れた。
それはエミリオ・プホールによればトーレス自身が弾くために製作したものだった。
タルレガは後に、1883年と1888年製の2本のギターを手に入れた。最初のトーレスは裏板と横板が火炎模様のメープル材で作られていた。
トーレスが使用したメープルは良質であったが、模様は多少変わっており、とくに裏板に用いられるようなものではなかった。
表面板は年輪が均一ではなく、1インチあたり18から34までの幅をもっていたが、最高級のスプルース材であった。
このデリケートな表面板は非常に薄く、胴の下方の外周付近では1ミリに満たない。このギターはトーレスの標準仕様である7本の扇状力木と底部の2本の対角力木、それにトルナボスを備えていた。
サウンドホールの両側には、2本の響棒をもっていたが、低い方は穴が無く、エンリケ・ガルシアが1897年に表面板のへこみを修理した際に取り付けたことがほぼ確実となっている。
当時、トーレスは穴のある響棒とトルナボスを最良のギターに試していた。

プホールによれば、タルレガは1889年までこのギターを使用した。絶え間ない使用により、もう1本のトーレスに持ち替えざるを得なかったのである。
タルレガは非常に美しいこの楽器をエンリケ・ガルシアに修理に出すために別れなければならないことに落胆した。
しかし、1度目の修理はうまくいかなかった。何年もたってから、ガルシアはそのギターを演奏できる状態にまで回復させ、タルレガの希望はかなえられた。
エンリケ・ガルシアが修理の際に貼ったラベルは、「背面板を取り外し、内部を修理した」ことを示している。
これは疑いなく表面板の補強と導入された1本の響棒のことをさしている。ラベルは修理が1897年に行われたことを示しており、おそらく指板とフレットの交換が同時に行われた。
常に弦の張力がかかった25年間の使用と爪のキズで、表面板はへこんでいた。表面板についた深い溝はタルレガの右手の親指の爪が、指板の端から引きずって出来たものである。タルレガが1888年製を好んだ証拠はあるが、1864年製が何年もの間お気に入りであったことは疑いない。
1917年、この楽器がフリアン・カルロス・アニード(マリア・ルイサ・アニードの父)に送られる直前、トマス・プラトはミゲル・リョベートにこれを見せ、リョベートが所有している1859製と比較した。
トマス・プラトによれば、リョベートはどちらが優れていると決められなかった。しかし、仲介したプラトは疑いなくアニードのトーレスの方が優れていると思った。

「数日前、リョベート氏があなたのギターと彼のギターを比較しました。長い時間かけて弾き比べましたが、彼は自分のギターに非常に強い愛着を持っていて、どちらも優れていると言いました。でも私はあなたのトーレスの方が優れていると思います。」

プホールは彼の「タルレガの生涯」の中で、タルレガのクラスでそのギターが弾かれるのを聴いたことについて詳しく述べている。

「(裏板は)メープルで出来ており、表面板はスプルース、ネックとヘッドはシダー、指板は黒檀だった。サイズは通常のものより少し小さかった。サウンドホールと縁には暗緑色のモザイクと二重の矢がすり模様がうめ込まれていた。ヘッド、背面、側面には精巧な長方形の連続模様が施されていた。おそらくトルナボスのためと思われるが、響きの自然さに加え、黄金で出来ているかのような明晰で温かみのある音色をもっていた。低音と高音のバランスは、奏者が求める割合に応じた正確な音量で鳴り、音の伸びは指板のどの位置でも同様に豊かだった。それは完全な和音を可能とし、低音の三本を鳴らすだけで他の弦の和音の響きを得られるほどだった。」

1909年、タルレガの死により、遺族が3本のトーレスの所有者となった。感傷的な思いはあったが、1917年、おそらく経済的な理由から、彼らはそのうちの1本の売却を決心した。
売却されたのは1864年製の1本(FE17)で、最も傷んでおり、タルレガの妻によれば、タルレガが最も気に入っていたのはこれではなく、1888年製(SE114)であった。ドミンゴ・プラトによれば、彼が直接スペインからこのギターを得たのだが、実際には彼の父トマス・プラトが、タルレガの兄弟であるビセンテ・タルレガと売買のすべてを行った。1917年3月26日、ビセンテ・タルレガはトマス・プラトに価格に関する手紙を出している。

「拝啓
あなたのご親切な手紙を受け取りました。兄パコ(フランシスコ)が生涯所有していた驚異的なギターをあなたが求めていらっしゃることをとても嬉しく思います。私どもは、このような非常に貴重なギターが、兄が知る限りもっともふさわしいギターとしてあなたのご子息の手に渡るとしたら、たいへん喜ばしく思います。私どもはこのギターを4000ペセタでお譲りしたいと思います。」

このギターは1917年8月6日にブエノス・アイレスまで32ペセタの運賃で船積みされ、350ペセタの保険料を払ってバルセロナを出航した。
そして、10才のマリア・ルイサ・アニドのもとへ届けられ、ビセンテ・タルレガが信じていたのに反してドミンゴ・プラトが弾くことは一度もなかった。
ドミンゴ・プラトによれば、この売買は「国の不名誉」だった。1979年1月、私がエミリオ・プホールにこの件をたずねたとき、彼はこの売買について語ってくれた。
彼は、それまでに出会った最高のギターを購入しようと思って、どれほどタルレガの家族に接触したか、非常に残念がった。「トマス・プラトは素早く行動し、割り込んできて、私が払えるより多くの金を提示し、ギターはなくなり、私は取り残された。」

プホールは何年も後に、ブエノス・アイレスを訪れた際、このギターに出会っている。それは放ったらかしで、ケースもなく、保護もされず、長イスの上に放置されていた。それが放ったらかしにされていた結果は簡単に見ることができる。
ネックに近い横板に裂け目があり、モザイクのかなりの部分が剥げ落ちている。取れてしまった部分はたぶんどこかへ失われてしまったのだろう。
糸巻きのギアも恐るべき安ものに交換されており、美しい巨匠の作品にはまったく不釣合いだった。

横板の片側には、タルレガの喫煙を好んだ明らかな証拠が見られる。いくつかは焦げており、タバコの燃え殻が弾いているときに落ちたのだろう。
SE49にはこうした痕があり、曲は何であれタルレガの演奏への集中と、タバコの粗悪な巻紙が原因であることは疑い得ない。
ニスの保護膜だけでなく、木部まで焦げている。タバコはふつう均一には燃え進まず、急に燃える部分もあれば、そうでない部分もある。このため、火のついたタバコの一部が上側の横板に落下したと考えられる。
プホールの著書に載っている写真には、タルレガがあるパッセージをコンサートで演奏しており、口にくわえたタバコが半分ほどヒゲにかくれて、不均一に燃えている様子が認められる。
彼は、とりつかれたような愛煙家で、それがプライベートなリサイタルであっても、大きなコンサートであっても、タバコなしにはいられなかった。音楽雑誌”Ilustracion Espanola y Americana”の批評には「タルレガは左手だけで演奏することができただけでなく、演奏中に喫煙さえした。」と述べられている。

このギターは個人のコレクションとして110万ペセタ(約5000ポンド)でバルセロナへと買い戻された。この売買は、1917年からの所有者であったマリア・ルイサ・アニードの仲介によって行われた。ギターの哀れな状態を目の当たりにするのは悲しいことであったが、木が弱っているため、いかなる修理も危険が伴うと思われた。しかし、少なくとも製作された国、演奏され称賛された場所へもどることができた。

トーレスがタルレガのために製作した1883年製のギター(SE49)は1864年製(FE17)との持ち替えを考えて作られたと思われる。
FE17は当時20年を経てかなり傷んでおり、両者の類似性から見てトーレスは前作と同じレベルのギターを作ろうとしたことがわかる。1864年製と同様に、裏板と横板はメープルで、木目と材質は前作に類似している。
トーレスは同じ力木配置を用いていたが、トルナボスは入れていない。縁飾りとサウンドホールの装飾は、一部を除いて同じモチーフを用いており、裏板の4枚はぎはそのまま残している。このギターは3本のうちの最後として1944年に売却された。
タルレガの息子フランシスコ・タルレガ・リソはアントニオ・セカネルに6000ペセタで売却し、現在はアルメリアのポピュラー歌手マノロ・エスコバルの兄弟であるホアン・ガルシア・エスコバルのコレクションとなっている。

タルレガの妻と1888年製トーレス(SE114)の買い手との手紙によれば、少なくとも晩年は「優れた響きと理想的な張りの強さ」からタルレガは1888年製を最も気に入っていたようだ。
トルナボスはなく、響棒にはトーレスがときどき採用していた橋状の空間がない。
サウンドホールのモザイクはあまり手が込んでおらず、前のギターに採用した細かなチェックのパターンではなく、同じころ製作されたSE113に取り入れられた鎖状の模様となっている。
緑の線が入ったロゼットは初期の作品を思わせる。単純なパターンはトーレスの指が弱ってきたことを示しているかもしれない。
手がふるえて、複雑なモザイクを作製することは困難になっていた。3枚はぎの裏板と横板はローズウッドでできており、何も装飾がない。

タルレガのために製作された最後のギターは、美術品に対して与えられるようなあらゆる取り決めをして、しぶしぶ1920年にキューバのギタリストに売却された。
関係者間の処理はとても厳密に行われ、製作者と製作された場所を記載した文書にあるタルレガの妻のサインを証明するために弁護士が呼ばれた。
マリア・リソが買い手に送った手紙は売買に伴う他の法的文書と一緒に保管され、エリアス・バレイロの所有となっているが、現在に至るまで公開されていない。

親愛なるマリア・ガルシア・デ・ゴンサレス様        カステジョン 1920年3月30日

3月2日付の手紙をいただきました。その中であなたは、亡くなった夫が所有していたトーレスギターの1本を望まれています。
私はその回答として、2本のうち1本は売却し、残ったローズウッド製のものを所有していることをお知らせ致します。
このギターは夫が優れた音質と理想的な弦の張力からもっとも使用していたもので、真の遺品と言えるものです。このため、もっとも求められてきましたが、私は決して売却しようと思いませんでした。
しかし、あなたには最大の喜びをもってお譲りしたいと思います。というのは、我々の古くからの尊敬すべき友人であるロッチ様の高弟の手に渡るからです。
さて、もうひとつ申し上げなくてはならないことがあります。それは5000ペセタ以下では売却を望まないということです。
もちろん、あなたが要求し、かつ私が認めたすべての条件を受け入れることは言うまでもありません。
速やかなご連絡をお待ちしております。ロッチ様によろしくお伝えください。

タルレガ未亡人 マリア・リソ

この返事が届くまでにそれほど時間はかからなかった。
6月15日には契約書が作成され、バレンシアの書士であるドミンゴ・ガロプレ・ガムボンにより公的に認められた。
文書にはギターそのものだけでなく、製作家、所有者について詳細に記述され、本物であることの証明のため、タルレガ未亡人による手紙が添えられた。
黒枠の封筒は、タルレガの死から11年を経てもなお、家族が悲しんでいることを示している。
契約書はおそらく書士による手書きで、次のようなタルレガ未亡人のサインが見られる。

「私マリア・リソ・リベジェスは、フランシスコ・タルレガの未亡人であり、ホセ・デ・ヘスス・ゴンサレス氏の娘でキューバ在住のマルガリータ・ゴンサレス・ガルシアのために、バレンシアのバラゲール・ダディア氏を通じ、1888年にトーレスが製作したローズウッド製のギターを売却した。第2期に製作されたもので、ラベルによれば製作番号は114である。私は、これが私の夫であり不滅のギタリストであるフランシスコ・タルレガが所有していたことを宣言する。この対価は5000ペセタで、私はゴンサレス氏の代理人であるバラゲール氏から受領した。ここに受領の署名を行う。カステジョン・デ・ラ・パルマ 1920年6月15日」

どのくらいマルガリータ・ゴンサレスが弾いたかはわかっていない。
しかし1940年以降、現在の所有者である米国ニューオリンズのエリアス・バレイロが所有するまでは、死蔵されていた。

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