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禰寝碧海 第3話

禰寝碧海 ③(Guitarra Española ~受け継がれていく伝統~)

丁度一週間経ったころ、いつも通り仕事を見ているとフアンアントニオに呼ばれ、その時彼がやっていた作業を「やってみるか?」と勧めてくれた。直前にマエストロが彼に話しかけ、さりげなく自分の作業台に戻って行ったところをみると恐らくはその話をしてくれていたのだと思うが、それから毎日他の色々な作業も手伝わせてもらえるようになり、とてもうれしかったのを覚えている。

 

 

毎日朝から晩まで工房に通っていたわけだが四人の人柄は誰もが素晴らしく、スペインでの長い滞在期間を過ごす上でとても大きな支えとなった。マエストロについては父から何度も聞かされてきたが実際に仕事を共にさせてもらって直にその人柄に触れることができたことは何よりの修行になったと思う。高齢になった現在も日曜日以外は休まず仕事をして、時に皆で冗談を言って笑いながらも無駄なく作業をしながら色んなことに気を配るその姿は父の話に聞いていたイメージを遙かに超えていた。

ある日ホセ・マリンの楽器を持ったお客さんが本人に会いに工房に訪れた時、弟子であるホセ・マリンの顔を立てるために工房の奥の方に引っこんでいたことがあった。自然にやっていることなのかもしれないがそういう心配りのひとつひとつ、お互いを尊重し合う姿勢が人望の厚さ、延いては楽器の質にも繋がってくるものなのだと思う。

そんなエピソードを出せばキリがないがホセ・マリンもホセ・ゴンザレスもフアンアントニオも、とにかくスペイン語もまともに話せない私の面倒を懲りずにいつも見てくれた。

私が工房にいる間は、それぞれが作っているギターのパーツ作りや塗装前の目止めなどを主に手伝わせてもらっていたのだが、四人とも冗談を言いながら丁寧に教えてくれ、「ちゃんと食べてるか?」「家で不便なことはないか?」など身の回りの心配もしてくれる。特に歳が近いフアンアントニオとはよく昼食にケバブを食べに行ったり彼の家でゲームをしたり、ほとんど下宿先と工房との往復だけだった私を色々と連れ出してくれ、さらに深くグラナダの空気を感じることができた。

グラナダの街には工房がたくさんある。アントニオ・マリンの工房から数分かからないところにトーマス・ホルト・アンダーソンとジョン・レイの工房が隣り合ってあり、大通りの方まで下ればアントニオ・ラジャ・パルドの工房、レジェス・カトリコス通りを少し入ればパコ・サンチャゴ・マリンの工房と、その他にも楽器店の中に工房がある所など多数が集まっていて、少し歩けば工房を見つけられる。ギターを製作する者には聖地と言ってもいい場所で、日本のオタクでいうところの秋葉原のような場所である。

そんなこの地で元々暮らしている人達からすれば、ギターは有って当然の物で特別意識をするようなものではないと思う。それがグラナダ滞在中にふと、実家でギターが近くにいつでもある。あって当たり前で深く意識をしていなかった私の小さい頃の感覚と似ている様に思い、あって当たり前の物を、少し踏み込んで意識することがこれから私がギターを作っていく上で重要な感覚だと、その時感じた。

 

数ヶ月の修行も気づけばあっという間に過ぎていった。朝から晩までギターのことを考え皆で 冗談を言って笑い、昼はいろんなバルに行き昼食をとり土曜日は一人工房で仕事をしているマエストロと少し話をする。それがすでに日常になっていた。帰国する数日前に渡西してきた父と合流し、工房の皆と私の好きな工房の扉の内側から望むシエラネバダと目の前の壁に描かれている絵を惜しみつつ「またすぐに」と別れを告げ、来た時の何倍もの想いを以てこの度の修行は終わりを迎えた。

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マエストロがブーシェより受け継ぎ、工房の弟子達に伝え、さらに自らの改善を続けて来たこと。その一端さえもまだまだ私は受け取れきれていないが、マエストロが何を考え、そして様々な状況で彼ならどのようにするのかを常に想いながら自らの新しい答えに昇華させていくことが、私の守りたい伝統の形だと思う。

 

時折、修理などで私が小さい頃の年代に作られた父やマエストロの楽器を預かることがある。観察すると当時父やマエストロがどのようなことを考えて楽器を作っていたのか、私自身の記憶とともに垣間見ることができる。これから伝統を守り進めていく上で、どうしても勘違いをしたまま進んでしまうこともあるだろうし、先が見えなくなり足が止まることもあるかもしれない。そういう時はこれらの楽器が自分を見つめなおす道標になることだろうと思う。

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第2話


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