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エッセイ:トーレスの音色の秘密④ 手塚健旨

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さて、1845年から‘53年までトーレスの足跡はぷっつりと切れ、”空白の年月”と呼ばれるが、彼はその間何度もマドリッドに滞在していた。カンポがアグアドに指示していた時期、実はトーレスも一緒にギターを学んでいたのである。

 彼が亡くなったとき、その遺品の中からアルカスが1876年にトーレスに捧げた〈ムルシアーナ〉の楽譜をはじめ、トマス・ダマスのギター教本、アグアド教本、ホセフェレールから贈られた曲集など多くの楽譜が見つかっている。彼はギターも弾いていたのである。

 1884年8月2日のアルメリアの新聞”メリディオナル(地中海)”紙には

「アントニオ・デ・トーレス氏は早くからギターに惹かれ、のちにディオニシオ・アグアドに学んだが、師の所有していたギターをモデルにギター製作を始めた」

 

 とはっきり書かれている。これはトーレスがアルメリアで製作を行っていた時のことだから、当然彼はこの記事を目にしている。トーレスは製作を始めた過程でギター演奏の必要性を感じ、アグアドに指示したが、その時製作上でのアドヴァイスをも受けたに違いない。

 この時期のトーレスのギターはアグアドが使っていたラコートを真似たもので、弦長が650mm、駒も同じで、そのうえトリポーデを取り付けられる器具を付けていた。彼の初期のギターにトリポーデを付けられる器具を付けていたことは、現在ラミレスのコレクションにある1852年製のトーレスにその跡が見られることからも明らかである(写真6)。ついでながら述べると、1902年12月10日付けでタレガがホセ・ラミレスI世に宛てた手紙(写真7)の文面から、タレガがトーレスと親交が深く、またトーレスとホセ・ラミレスI世も付き合いがあったことがわかる。

 

 

 「1902年12月10日バルセロナ

 ホセ・ラミレス様

 我が盟友トーレス氏より光栄にも貴方様をご紹介いただきました。マドリッドの多くのギターファンに私の演奏を披露してくださるとのお言葉、大変名誉なことと恐縮しております。しかし、近々イタリアに出発するためその願いもかないません。いずれ貴方に直接お目にかかってご挨拶する日が来ると思います。

 フランシスコ・タレガ」

 

それに対しラミレスは、1903年1月に再びコンサート依頼の手紙を送ったがやはりタレガは丁重に断っている。

 

 「1903年1月11日 バルセロナ

 ……心より感謝しております。私もあなたにお会いしたく、またささやかな私の演奏を披露できることを願っています。おそらく4月にはマドリッドに行けるでしょう。その時はあなたにお知らせします。私の写真をあなたに捧げるのは大変光栄で、明日郵便にて発送します。今度水曜日にローマに出発しますが、またの連絡をお待ちください」

 

 しかしその後タレガはマドリッドに出かけることはなかった。次にラミレスからギターも送られてきたが、これに対しても次のように断っている。

 

 私はすでにトーレスという正妻を抱えており、ほかの楽器に取り換えるという浮気ができない状態です。明日郵便にて返送させていただきますので、なにとぞご了解ください」

 

 さて、トーレスはカンポが買い取ったムニョスのギター工房で一緒にギター製作を行っている。このあとアルメリアとセビーリャで1854年までに作ったトーレスのギターはすべて、こうして親しくなったギター販売店「ベニート・カンポ・ギター工房」で売りに出された。そこには1852年にアルメリアで、’54年にセビーリャで作られた2本の梨型ギターも含まれている。この’52年製は現在マドリッドの製作家パウリーノ・ベルナベのコレクションになっているが、これはトーレスが”Citara”と名付けて長年愛用したギターだという。そして1854年製はどこをどう巡ってか、一時期日本のコレクターが所有していた。

 

 

 

写真8

 

 写真8-1

 

◆晩年

 トーレスのギターはおおまかに見て、次のように分けられるだろう。

 

第Ⅰ期 1840-’58年までの作。この時期に最も多くの二級品が作られている。

第Ⅱ期 1859-’69年の作トーレスの絶頂期で、名手のほとんどはこの年代のギターを使用。

またコレクターもこの時期のものを求める。

第Ⅲ期 1880年以降の作。一時引退したあと再び復帰してからのもので、すべてのギターに製作番号がつけられている。

 

トーレスは最も油の乗っていた1869年に突然引退して、故郷アルメリアで商売を始めたが、それはギターが売れずに先行きに不安を感じていたからである。当時のギターの名手は、アルカス、タレガそしてフェデリカーノしかいなかった。アルカスとタレガはどちらも3本トーレスを購入している。他にトーレスの一級品を求めたのは、上流階級のギター愛好家だけで、それも数には限りがあった。そこでトーレスはやむなく誰からも注文をうけ二級品も作ったが、そのことでジレンマに陥り、結局引退の道を選んだのだろう。しかし頑固で気まぐれな性格のトーレスに、陶器類の販売は向かなかったと見える。そしてギター製作に未練が残っていた彼は、その間に2人弟子に製作指導をしている。1人目のホアキン・アロンソのギターのラベルには「トーレスの弟子」と書かれ、もう1人ホセ・ロペス・ベルトランのラベルにも「トーレスの唯一の弟子」と記されている。しかしこの2人の名が世に出ることはなかったから、トーレスが教えたのはわずかなものだったのだろう。生活が不自由になったことから1875年トーレスはやむなく製作を再開する。そして1本ずつに時間がかかる仕事で細々と生活していたが、そこへ救いの手を差し伸べたのが、当時勢いのあった名ギタリスト、フェデリーコ・カーノである。彼はトーレスのギター演奏の腕にも感心して<ブランコ・イ・ネグロ>というやさしい曲を捧げているが、賞讃したのはもちろん楽器の方だ。フェデリーコはトーレスに自宅の一室を提供し、そこでギターを作らせた。

その1884年から‘85年にかけてのギターは、フェデリーコ自身が5本も購入し、残る4本は彼の弟子と友人に紹介している。しかしこれを最後にトーレスの手には震えが来て、もう1人では仕事が出来なくなってしまった。

1931年1月29日付けで、ファン・マルティネス・シルベントが友人に宛てた手紙にそのことが書かれている。

 

「当時トーレスは68歳で楽しみにギターを弾いていましたが、その製作においては私が手伝いました。トーレスはサインも出来ない程に手に震えがきていたため、繊細な作業は私が行ったのです。そうした仕事の時、彼は必ず工房の扉を締めて鍵をかけ、家族を含め誰にも会わないようにしていました。

この工房にはタレガはじめ多くの名士が訪れてきました。ギターの注文は南米からのものが多かったです」

 

ギター製作の術を知り尽くしていたこの偉大な人物は、1892年11月19日、アルメリアのラ・ランブラ・デ・アルファレーロス街8番地で、75歳で生涯の幕を閉じた。

 栄光と貧困生活の狭間の中で。

 

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