1858年トーレス41歳、セビリアで工房を構えていた第1期時代を代表する作品で最も手間暇をかけて製作された<La Guitarra Cumbre >FE08オーダー品の製作レポートを掲載致します。
Fe08は同年のセビリア博覧会に出品されブロンズ賞を受賞しています。
高度な製作の技法や製作家の形而上的な矜持まで求められる作品で、トーレス研究家のロマニリョス氏などがFe08のレプリカを製作していますが、ロマニリョス氏にお会いした時に
「再びFE08レプリカを製作したいと思ったんだが、体力的な問題で妻と相談してやめたよ」と仰っていました。
今回、FE08のレプリカを製作するための良材がやっとそろったこと、また、私も50半ばなので、おそらく最後のFE08レプリカ製作になるだろうとの思いから、この際どんなに製作が困難な作品なのかリポートを兼ねて、私自身の製作の足跡としてここに残したいと思います。
中野 潤
ロセッタ等に使う白蝶貝を母貝から加工し板にして、飾りを切り出しています。 糸鋸の歯を何本も交換しての作業です。
貝より始めました(笑)。
ロセッタと駒の飾りの白蝶貝の加工です。
この花?はなんだろうとずつと思ってましたが、犬と散歩の途中に近所の生垣の片隅に よく似た花を見つけました。スズランです。
ヨーロッパの高緯度地帯の植物ですが、実はスペインのシエラネバダ山あたりが南限で スペインにも辛うじて存在しているみたいです。トーレスはアンダルシア地方のアルメリア出身でシエラネバダ山のあるグラナダでも暮らしてましたから、この形状がスズランである可能性もありますね。確かめようがないのが残念ですが、いつかトーレスにお会いできたら 是非訊ねてみたいと思います。
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貝細工も台座に入れて終了です。
日本は真珠母貝を生産する国なので、簡単に白蝶貝が入手できますがアメリカ等は規制がかかって取引が難しくなってます。
1997年にあこや貝に病気が蔓延し絶滅しかかり、中国系のあこや貝に養殖を切り替えた様子。
以前のあこや貝よりも薄く丸みがあるので素材加工が難しくなってきてますね。
間違いなく温暖化の影響でしょう。
さて、貝細工はこの辺で次の装飾にかかります。
これが何になるのかは次回のお楽しみです。
さてトーレスの初期の作品に使われていた雷紋模様の製作です。この模様の起源は中国であるのかギリシアであるのかわかりません。
ギリシアのパターンはこのようなパターンです。トーレスの雷紋模様はどちらかといえば中国起源の模様に近いですね。
スペインでトーレスの使うこの模様がどこか違うところに存在していないか探していたら、たまたまセビリアの古いバルの入り口の木彫が施された扉にありました。
ロマニリョスの著作に製作のメソッドの紹介がありますが、やってみるとそれほど簡単ではないです。
このパターンで木組みしますが、寸法を細く計算して仕上がりに誤差がないようにします。
どうしても木材であるので、仕上がりが均一でないものも出来てしまいますので、複数本を製作して出来の良いものを選びます。
ヘッドセンターとサイドとバックに使います。ちょうど金太郎飴のようにスライス。飾りの製作はまだまだ足りませんね。
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トーレスの雷文模様で、ギリシャの飾りに近いものを見つけると同時に、バルセロナで知り合った製作家のラウル・ヤゲ氏のことを思い出しました。
残念ながら2014年に他界されましたが、スペインのギター製作家でも稀有な存在で数々のトーレスの楽器の修復にも尽力されていました。
双子で製作していたラウル兄弟の工房でギターを弾くサインス・デ・ラ・マーサ。
工房の入口のアール・デコ風の扉も彼らの作品です。
リョベートの墓前でカルロス・トレパット、
ステファノ・グランドーナ氏と
ラウル氏の製作したロセッタですが、説明しないとすごさがわかりませんね。
雷文模様をカーブのある形状にして、周辺のヘリングボーンも分断した矢になってます。
これは彼から頂いたのですが「Y」の字になっています。
ヤゲという姓のイニシャルだと笑って言ってました。
これも難しいですよ、製作してみれば。
象牙で自作した超ミニ鉋です。
お会いした時に一通り拝見させてもらいましたが
驚くほど小さいです。
私が製作したFE08をお逢いする以前に見ていたので、
ありがたく仕事仲間だと認識して頂いていました。
シンプリシオが使っていたトルナボスをプレゼントしてくれました。
多分、絞り技術で製作されていて継ぎ目のない真鍮のトルナボスです。
スペインでお世話になったり、知り合った製作家も結構他界されて寂しい限りですが、気を取り直して前進していきます。
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薄くスライス。ざっと計算すると720/10.5=68.5、
68.5個を4倍(上下の2組)で274個必要になります。
ロセッタ飾りの外周の寄せ木細工です。
小さなパーツから少しずつ必要な長さに足して伸ばします。
完成したダイヤパターンのラインです。
話はそれますが、今時のギターでダブルトップタイプと呼ばれるものがあるのですが、スキンと呼ばれる極薄の表面板2枚の間にハニカムの特殊な構造物を挟み込んで接着して、一枚の表面板としています。ちょうどこんな感じなんですよ。一目瞭然なので紹介しました。(段ボール写真)
ギターの飾り装飾の基本のきの字、ニシン(ヘリング)の骨と俗に呼ばれる
矢羽根飾りを製作しました。
ギター製作家を名乗るならヘリングボーンくらい作れないと一端ではないと個人的には思います。
何枚も黒く染色した突き板と白の突き板を用意します。
慎重にそれぞれの突き板の厚みを出してから接着する組み合わせを揃えます。
それぞれ接着したものを用意
角度をつけるために少しずつずらして接着します。
カンナの削りかすですが、ヘリングボーンに最終的にするには材料素材の廃棄率が半分くらいになってしまいそうです。
恐ろしくエコではない飾りです。
仕上がりです。製作してしまえばあまり楽器のイメージを決めるようなデザインでもなく地味なものですが、染色から始めると途方もない労力です。
さてお楽しみのギターの顔、ロセッタ製作です。
量産される楽器や大多数の製作家が自作のロセッタを製作しなくなったのは楽器の異常な需要があった時代を経ての変化だとは思いますが、楽器製作家を
名乗るなら、せめてロセッタは精度が悪く、デザインが気に入られなくても自作するべきだと思いますね。
トーレスの涙が出るような努力はレプリカを製作してみるとよくわかりますが、あの時代の工具、環境を思うと奇跡的にしか思えません。
19世紀ギター初期の作品もヨーロッパの名工たちの外連味のある意匠が素晴らしいですね。
それでは本題に入ります。
まずは白蝶貝のセントラルモチーフ20個、チェック型のインレイ21個を台座に組み込みます。
次は周囲のライン系の飾りです。
外周から順番 黒0.6 白0.3 黒0.6 白0.3 ダイヤモンドモチーフ 白0.3 黒0.6 / 白0.3 黒0.35 ヘリングボーン 黒0.35 白0.3 黒0.6 白0.3 黒0.5 /
十字型 黒0.5 白0.3 黒0.6 白0.3 黒0.35 セントラルモチーフ /の順になりますが、それぞれを上手くパターン化して組み合わせます。
数回に分けて周囲の飾りを入れていきます。揃えてしまえば上の写真のようになりますが、本数も想像以上に沢山必要です。
例えば、0.6黒+0.3白をA / ダイヤモンド+0.3白をB / 0.35黒+0.3白をC / 0.5黒をD / 十字型+0.5黒をE /とすると、A+A+B+A+C+ヘリングボーン+C+A+D+E(十字型)+A+C+セントラルモチーフとFE08のパターンを読み取りました。
ダイヤモンドパターンと十字パターン、ヘリングボーンの製作の辛さは以前レポートさせていただきました。
少しずつでも前進ですね。
トーレス第1期、セビリアで製作されていたFE(First Epoch)ナンバー(ロマニリョスが付けた呼称)の楽器は非常に凝ったロセッタデザインの楽器が多いのですが、こうしてレプリカを製作しているとデザイン的な発想の素晴らしさと、中途半端ではない仕事量には驚かされます。
ヘッドインレイです。
セントラルモチーフは側板のものと共通です。
両サイドに菱形飾りが入ります。
飾りを鉋で削るとこんな模様の薄いつき物がでます。
使用しないので全て捨てることになりますが、勿体無いですね。
裏板の飾り入れです。
全て用意していたと思い込んでいましたが、不足している飾りがありましたので急遽追加製作しました。
裏板のセンター飾り
黒0.7白0.3黒0.7白0.3黒0.7と白1×1黒1.2×1の飾りとヘリングボーンの組み合わせにセンターが雷紋
センターの雷紋を向きを間違えないようにセットします。
裏板ができました。
裏板の厚みだしがおわったとこで、裏板の内側の割れどめを接着します。
裏板の割れ止めを合計4枚
オーソドックスなセンター2枚合わせの裏板の場合、割れ止め1本で済みますが、4本は必要です。
側板のインレイに取り掛かります。
裏板のセンターモチーフと意匠は同じですが、ラインの幅が裏板と若干違います。
側板の上下のインレイです。
私は横10.5ミリサイズのピースで象嵌を用意しました。
FE08の側板の長さが約690ミリなので690÷10.5=約66個一箇所に66個必要です。
側板2枚で上下2箇所なので合計4ヶ所にインレイを入れなければなりません。66個×4箇所=264個必要でした。
接着する用意ができました。
一度組んだものを順番に外して、方向など間違いのないように確認してから膠で接着します。
側板のインレイが済み、厚みサイズを出します。
側板を熱で曲げます。
インレイと側板が熱で剥がれないように和紙を側板を包むように張り付けて熱加工に備えます。
ロマンティック(19世紀)ギターからスペインクラシックギターの画期的な移行はトーレスと師匠パヘスによりグラナダで生み出されました。
ヨーロッパのロマンティックギターはリュート的な横方向のバスバーの配置設計がスペイン以外の国では主流でしたが、スペインで当時作られたギターの中には縦方向に扇状にバスバー(力木)を配置したものもありました。
トーレスはその扇状に配置するバスバーの本数変更や、トルナボスを装着するために生まれた眼鏡橋状のくり抜かれたハーモニクスバーで低音域の音量を増大することに成功して現代のクラシックギターの礎を築きました。
トルナボスとは一般的に共鳴筒と訳されたりしていますが、スペイン語のTornar (変化させる)とVoz(声)とを合わせたTornavozという造語なのでTornavoz=変声筒と訳した方が正確かもしれません。
トルナボスは主に金属で作られた筒状のものです。
向かって左はバルセロナで製作家のラウル・ヤゲス氏から頂いた、シンプリシオ工房のために製作されたトルナボス。右は銅製の当方で製作したトルナボスです。
トルナボスの効果はバスレフ方式のスピーカーボックスと似たところがあり、筒を通して低音域の位相を反転させて前面に出すことで低域の音量を増大することができます。
ギターの駒をスピーカー本体として考えれば、トルナボスはバスレフタイプスピーカーボックスのダクトになります。
この様にトルナボスの効果についてはバスレフ型スピーカーで説明するのが一番わかりやすいのですが、実はバスレフシステムが生まれたのが20世紀に入ってからですのでトーレスの時代にはもちろん存在していません。
ですからトーレスはスピーカーから発想したのではなく違うものから想起したと考えられます。
例えばバロックギター等のサウンドホールにはパーチメント(羊皮紙)で作られた、教会の内側から見た天蓋装飾を想起させる様な、立体的な飾りがつけられています。
そこで、これが発想の原点となったトルナボスの一種ではないかとおっしゃる方もいますが、パーチメントは共振というよりは空気の流速の整流効果を期待させるもので、共振という発想ではなさそうです。
但し余談となりますが、ハウザー1世がトーレスに影響されて製作したパーチメント製筒状トルナボスの作品もありましたし、私も羊皮紙のトルナボスギターを数本製作したことがありますが、トルナボス効果はあります。
トルナボス効果にご興味がある方はケント紙などで簡単に筒を作ってサウンドホールにテープで固定すると音の変化を感じることができますのでお試しください。
一方楽器にホーンを着けて音量を増大させようという発明も19世紀末にされました。
シュトロー・バイオリンというものですが、音量と蓄音機の発明で指向性の高い楽器が求められたゆえの楽器です。20世紀の初等の録音には名手達も朝顔付きの楽器を使用して録音したようです。
この朝顔ラッパで音量を稼ぐという発想は蓄音器にも取り入れられましたが、エジソンが蓄音機を1877年に発明して商品化され普及したのが1897年ごろですので、トーレスがトルナ ボスを考案した事と、この発明の関連性は無かったと推察できます。
ただし、大きな音量は古代の角笛から金属製の管楽器までに共通する、ホーン形状の筒によりもたらされると経験的に人類はわかっていましたから、トーレスと師匠パへスがホーン形状の筒をギターに取り付けてみたいと(ずいぶん奇妙な発想ですが)考えたことは想像に難くありません。
そして実際に内部に取り付けて製作してみたところ、偶然ではありますが「ヘルムホルツ効果」の共鳴効果を強く生みだしたと考えられます。
トーレスが音量をもっと得たいという理由からトルナボスに行き着き、そのために金属ホーンを利用したのは間違いなさそうです。
19世紀の天才物理学者でヘルムホルツが考察した原理で、簡単に解説すると、首の長い瓶などに空気を良い角度で吹きこむと共鳴して瓶が音を出して鳴ります。
子供の頃によくジュースの瓶で音を出して遊ばれたと思います。
水などを入れて容積を変えると音程も変化しますね。
原理としたら、共鳴する容器の外から内部に空気の圧力をかけると容器が圧力で膨張し、容器は元の大きさに戻ろうとします。この時に空気を吐き出すのですが、空気の復元力でまた空気が内部に圧縮されて取り込まれ、再び膨張し吐き出すという運動を起こします。
この時に容器を大きく振動させて音を発生させます。
バスレフ型スピーカーのダクト、トルナボスもヘルムホルツ効果で振幅し音として変化させています。
ギターはサウンドホールがありますのでヘルムホルツ効果を知らないうちに起こしています。
箱鳴りのウルフトーンについては様々な意見がありますが、ヘルムホルツ効果で生じているウルフトーンもあると考えられます。
ギターの側板上部に穴を空けた楽器がありますが、ヘルムホルツ効果による空気圧力の出し入れをサウンドホールだけでなく複数にして、特定の共振をマイルドに平均化させる効果があります。
特に低音はスッキリとした音になります。
工房にあった廉価な楽器で試験的に穴を空けてみました。
トーレスFE 08レプリカモデルに装着されている銀で製作したトルナボスです。
(よくアルミ製だと間違えられますが、当時はアルミはありませんでしたし、アルミは打ち抜きできません。)
さて初期のFE08やレオナなどは3番目のハーモニクスバーがありませんでした。
その為、そのままでは駒からのマイナスの応力でサウンドホール側が内側に潰れてしまいますのでトルナボスに支柱を3箇所に置いて力を受け止めていました。
しかし、トルナボスを支柱で裏板と繋げてしまうと、筒の振幅がほとんどなくなってしまいます。
そこで天才トーレスは3番目にハーモニクスバーを取り付けましたが、3点のみで支えることを発想しました。
これでトルナボスの振幅が自由になり、より低音域を再生することができるようになりました。
その結果、初期中期にはトルナボス付きの楽器をトーレスは製作しましたが、トルナボスが無くても、豊かな低音をこの特殊な形状の3番目のハーモニクスバーで生み出せることを発見し、後期はトルナボスを取り外しました。
この構造はマヌエルラミレス、ホセラミレス、ブーシェ、ハウザー等に取り入られました。
3番目のトランスバーの形状に注目してください。
バスバーは、材料のトウヒを柾目取りするために斧で年輪に沿って割ります。
年輪に直角にさらに斧で割ります。これでパーフェクトな柾目材ができます。
今回のFE08はトルナボス無しで製作しています。
表面板はスペインでよく使われる単体ブロック式でなく、トーレスが好んでいた「続きライニング」で接着します。
(上が続きライニング、下が単体ブロック)
表面板をCクランプを使って側板とネックにニカワで型にはめて接着します。
表面板の接着後、裏板の取り付けにとりかかりますがモザイクの入れられた横板を紙で補強します。
トーレスはなぜか五線譜の用紙を補強に使ってました。音楽的であれ!ということでしょうか?
それとも貴重な紙を無駄にしたくなく知人のギタリスト作曲家から五線譜を譲り受けていたのでしょうか。色々考えると面白いですね。
トーレス自身も作曲したことがあったり??
構造的な弱い部分を最初から割れ止めでカバーします。
裏板にバックログの当たる部分を注意深く現物で合わせ、裏板の割れどめを切り欠きます。
裏板接着時のテンションでバックログのアーチと裏板のドーミングが崩れたり、表面板のドーミングへの影響も防ぐために、それぞれのバックログを簡単な治具で支え調整します。
ニカワをライニングとバックログにつけて接着します。
温度に敏感な接着剤なので、温めながら作業を進めます。
型の上でネックの角度の正確な固定も兼ねて裏板を取り付けます。紐で縛っての接着です。
ボディができました。
パフリング飾りを入れていきます。
幅が非常に広く、一度に飾りを接着することができませんので何回にも分けてピンと膠で固定します
一周巻くとこのようになります。
2回目です。次のパターンを接着していきます。
以下、違ったパターンを増やしていきます。
ヘリングボーンを追加
ヘリングボーンの周囲
ヘリングボーンを更に増やします
クロスパターンで周囲飾りのセンターに到達しました。
これからまた外周へ逆向きに同じパターンでパフリング飾りを増やしていきます。この部分は長い作業なので写真は割愛させていただきます。
外周を巻いて仕上がりです。
表面板についで裏板のパフリング飾りです。
表面板と同様に少しずつピン固定して飾りを増やしていきます。
地味な仕事ですが、線のエンドを綺麗に続くように加工しなければならいので、手前と時間がかかります。
欲張って一度に複数を接着するとラインの間に隙間が出来たりしますので、無理をせずにコツコツ作業。
接着面清掃の写真はありませんが、はみ出した膠のりを取り除いてライン同士の接着に影響が出ないよう毎回接着面を掃除してから次のラインに移ります。
ハーフヘリングボーン飾りを接着
菱形(正方形)をつないだパターンを接着
独特の形のヒールエンドです。
ストレートが外観をスッキリさせています。
エンド飾りです(まだ研磨していませんので汚れています)
一つの雷文飾りが逆パターンになっていますが、ただのエラーではなくて、これは『トーレスのおまじない』だと信じています。
『完成体は崩壊してゆくだけですが、永遠に未完成は滅びることはないのです』
トーレスにどこかで会えたらこの件はぜひ尋ねてみたいですね。
駒飾りの白蝶貝を切り出します。
白蝶貝は海外では規制が厳しくなり、弦巻きの白蝶貝ボタンでさえ輸出入では気が置ける取引になりました。
幸い白蝶貝は日本の国産のものを使えますので助かります。
ただし地球の温暖化の影響は真珠母貝(白蝶貝)の養殖にも悪影響を与え、大判の良質なものがだんだん少なくなってきている印象です。
駒の両サイドに入れる飾りをポジションにぴったりと合わせて接着します。
グラナダ修行中にアントニオ・マリン師からいただいたロウでなめされた麻紐を使って3本の楔で駒をニカワで接着します。
もう30年近く前にマリン師から分けてもらった麻紐ロープですが切れることなく使用しています。
この麻紐に変わる、太さ・しなやかさ・堅牢さがある紐を探してみましたがないですね。
マリン師が長さを定規で図らず、適当な感じで裁断した紐の長さが、駒を取りつけるには
丁度のサイズであったことには自分の工房で実際に使ってみて驚きました。
駒裏に表面板と同じドーミングカーブをつけた当てジグを使ってもいいのですが、トルナボスが取り付けられていたら当てを使うことができないので、今回は特にクランプではなくスペイン伝統の工法であると思われる楔を使った方法で駒を取り付けました。
楽器を製作しながらもう一つの大事な作業をしたいと思います。
FE08のラベルは白蝶貝に名前、製作年を彫り込んだものです。
白蝶貝をサイズに切り出してラベル文字の刻印をしてから縁をつけます。
トーレスデザインから自分の名前に変更したデザインです。
さらっと彫り込んだように思えますが、このラベルだけを彫り込むのに10日以上かかりました。現代ならレーザー刻印でもできるかもしれません。
しかし、手彫りの拙い味わいもいいものです。
ガラス質なので力加減では割れ欠け筋が入ってしまうので想像以上に難しい。
現代では廃れた貝のインレイ技術ですが当時の技術力の高さなど、10日間の作業中には思い知らされます。
完成をどこで止めればいいのわからない作業ですが終了にします。
次にポジションマーク」とナット、サドルの作成に入ります。
象牙のポジションマーク2ミリをご依頼されていましたが、どこにも販売されていないので製作しました。
ナット、サドルも象牙指定です。規制以前に手に入れた切り崩した象牙から加工します。
筒状の象牙から平板を切り出しますので、捨てる部位が多いのが残念です。
いよいよ入手が難しくなったこの時代、この牙を失った像がどうなったのか、気にかけてしまいますね。
ナットの溝にあうサイズに微調整します。
トーレス特有の弦溝の合間に溝が彫られた形状のナットができました。
サドルの象牙も用意できました。獣骨と象牙では音色が違います。
どちらが優れているとは感覚的なもので、楽器との相性もあり簡単には言いきれませんね。
個人的な感想では象牙よりも獣骨の方が粘りがある色気は感じますが、象牙は音の立ち上がりの良くない楽器をはっきりとした輪郭の音に変えてくれると感じています。
この後は楽器を研磨してからセラックニスの塗装にかかります。
塗装に入る前にサンディング研磨をします。
180番から番手位を上げて裏横は400番まで、表面板は600番まで順にサンドペーパーで処理をします。
黒檀の研磨をすると木の気孔に入り、メイプルを黒く汚してしまうので目止め作業を同時にしながら研磨を続けます。
いよいよ塗装に取り掛かります。
古くから楽器の塗装はセラックニスかリンシードオイルのようなアルコール系ワニスか油ワニスが使われて来ました。
第二次世界大戦以降の楽器の塗装は耐性に優れたニトロセルロース系のラッカー、ポリウレタンへと移行していきます。
セラックニスの利点は薄い皮膜が作れることと、修復も容易で、特別な装置がなくとも塗装ができる点です。
セラックニスは水分や高温に弱く取り扱いに難しいという難点もあるものの素直で自然な音響特性はいまだに評価され続け、高級な塗装方法として楽器に使われ続けています。
セラックニスについてはご存知の方も多いと思いますが、原料は樹皮につくカイガラムシの分泌物でアルコールを溶媒にして使用します。
セラックニスと共によく使用される目止め材、そして研磨にも使われるピエドラ・ポメスと呼ばれる軽石をとても細かくした粉です。
ヨーロッパでは大理石のフロアを磨くときに、床に撒かれ布で磨かれます。
左側がスペイン語でムニェカ(人形)と呼ばれる内側に綿を入れた木綿のタンポン
右側が軽石の粉を詰め込んだ「てるてる坊主」のような目止めタンポです。
この目止め袋を塗装中、塗面に叩きつけて中からでた少量の粉で目止めします。
塗装が進んでいくといい色が出て来ます。
塗装を何度も繰り返し、乾燥後800〜3000番まで研磨し艶を出します。
最後に弦を張りいよいよ完成です。
ご依頼いただいてから3年目にようやく完成しました。この期間にも世界を変えてしまうようなコロナ禍が起こる等、たった一台の楽器を作りあげている間にずいぶんと様々な事が起こりました。
トーレスという人物は第一期ファーストエポックに製作に情熱をかけ、タレガが愛した美しいFe17など、珠玉の作品を生み出していました。
もちろん、その時間を度外視した製作に見合う製作費がもらえなければ続けてゆくわけにいかずセビリアの工房を閉じて、故郷のアルメリアに戻り数年間、製作をやめてしまいました。スペインの社会情勢不安と経済的な没落にも起因していたのかもしれません。
FE08のような恐ろしく時間のかかる作品ばかり製作していては、生活が成り立たないでしょう。
ここでトーレスがギターをどのように変えてしまったのか、また原点に戻って楽器とは何か考察してみたいと思います。
トーレスが師匠のパフェスとグラナダで研鑽し作り上げたギター構造のダイナミックな音響がそれまでの19世紀ギター(ロマンチックギター)を滅ぼしてしまうのですが、ロマンチックギタータイプを製作していた、ラミレス一族、ハウザーにも影響を与えてやがてモダンギターが確立するギターの流れは、ヨーロッパでそれぞれの製作家がトーレスがもたらした変革期にどのように向き合ったのかはギター史では興味深い題材です。
しかし一方で貴族的な優雅な美の追求もしていた19世紀ギターを皮肉にも表舞台から追いやったことは、社会構造の変化、貴族階級の没落とともに迎える楽器の大衆化の潮流の中で『楽器の美しさ』への相対的な価値も失わせてしまったと、現代から見れば思えます。
楽器とは大きく言えばホモサピエンスが進化してゆく中で生み出して来た、コミュニケーションの道具の一つであると言えます。呪術的な要素の装飾も楽器に付随して来たのは容易に想像できます。
楽器はただ音がすれば良いのではなくて装飾の美しさも求められて来ました。
装飾には呪術や自然をモチーフにしたものが多く、モダンギターでも例を挙げると波模様はエルナンデスイアグアド、初期のハウザー1世、花模様はトーレス、イグナシオフレタ等、呪術的であり連続的なケルトや回教徒の鎖模様もロセッタモチーフには見受けられます。
装飾にもこだわったトーレスという匠の技の執念にはこの数年間泣かされましたが学ばされ、時には励まされて来ました。製作側としての考察は以上ですが、演奏者の方達はどうでしょうか。
一人称で閉じられる世界ならば、音の世界に埋没して楽しめば、究極的には装飾など不必要なものかもしれません。しかし音楽とは他者に聴かせるもの、音で表現しながら見せるもの、見られるもの、見て楽しむものという奏者と音を通じて奏者と共時に関係性を持つ芸術でもあります。
演奏を拝見していて多くのモダンギターの装飾に物足りなさを思うのは、ロマンチックギターが滅びるまで、「装飾が生き生きと楽器を飾っていた時代」を知ってしまったからでしょう。
トーレス以降、美的なギターはスペイン市民戦争の頃の製作家シンプリシオでほぼ終わってしまった感もありますが、今でもグラナダのラファエル・モレーノのように、ひっそりと芸術的な楽器を製作している製作家も世界には探し出せばいるでしょう。
音楽と楽器とは何かを考えるときに、歴史文化を想うと「自然、祈り、喜び、悦楽、祝祭」等を象徴する装飾も楽器にはあってもいいのではないかと思います。
とかく「美しいか」「音が良いか」の二項対立でものを考えてしまいがちですが、両方よければさらに良いでしょう。
考えてみれば、家具もデコラティブなものが減りシンプルなものばかりになりました。呪術的なものから解放された現代人はシンプルの中に美しさを感じているのかもしれません。しかし、私の感性はそれでも楽器には美しさを求めてしまいます。
取り止めもなくなりましたがこの製作記レポートを取りまとめ励まして頂いたアウラの皆さんと、ご注文頂き長い間お持ちいただいた御客様には心より感謝申し上げます。
ご興味をお持ちいだだき最後まで読んでいただいた方々にも御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
2022年元日
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