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第4章 19世紀以降の製作家

ホセ・ラミレスの師はフランシスコ・ゴンサレスと考えられている。
彼はギター製作家のマドリッドスクールの設立に基金を提供したとされているが、設立したのはおそらく、フランシスコではなく、マルコス・アントニオ・ゴンサレスであると思われる。
彼は1860年にトレド街に工房をもち、軽いギターを製作したが、すでにトーレスの影響が見られる。
彼の存在から、ラミレス兄弟に見られるように、ギター製作の原理として、2つの主な流れがあることがわかる。
つまり、伝統技法の継承と、マドリッドスクールの革新的なアイデアである。ゴンサレスが残したいくつかのギターは、大型のボディをもち、新しい技法が反映されている。
ゴンサレスの最盛期、新たに、そしてさらに続く影響がマドリッドスクールから起こる。
1860年代初頭にはトーレスのギターはマドリッドでも知られていたが、トーレスの技法が実際に取り入れられたのは1880年代の後半、マヌエル・ラミレスによってであった。
変化は次のような音楽批評から始まった。「ウェルタ氏の昨夜の演奏に使われたギターは、優れた巨匠、アントニオ・カラーセドの作品であり、繊細で輝かしい音を作り出していた。
これはスペインギター製作の進歩を示すものだ。」アントニオ・カラーセドのこの時期のギターはすでに現代のものであり、表面板の幅が大きく、扇形の力木をもち、高さのある指板と現代的なブリッジを備えている。
トーレスの影響が当時どの程度のものだったか推し量ることは難しい。
この時期の製作家の作品で残されているものが少ないためである。現存するものについて調べてみると、細かい点までではないにしろ、少なくとも原理的にはトーレスの思想が受け入れられている。
トーレスが1856年までには確立した開いた力木は、1863年のエウスタキオ・トラルバのギターに見ることができる。
このギターは通常の力木ではなく、サウンドホールの下部に非対称の力木が導入されている。
2つの系統の製作法がホセ・ラミレスと弟のマヌエル・ラミレスいう同じ系統のファミリーから起こっていることは興味深い。
ホセが古い製作方法にこだわったのに対し、マヌエルはホセの工房で学んだが、やがてゴンサレスの方法を捨て、トーレスの新しい進歩的な方法を選択していった。

マヌエルは1864年にアラゴンのアルアマで兄と6歳違いで生まれた。
父は大工の棟梁で、サラマンカの財務局や不動産業者、マドリードの軍等で仕事をしていた。
ホセは父親がマドリードで働いているときに生まれ、12歳のときにゴンサレスの工房で働き始め、そこでギター製作の基本を身につけた。
1893年、彼はギター店を営む許可を得、コンセプシオン・ヘロニマ通り2番に開店する。現在のラミレス家の末裔による逸話と、残された作品から得られる情報は、二人の関係とギター製作に対する考え方の違いを垣間見せてくれる。
彼らの作品はそれ自体、製作技術に関する限り輝かしいものであるが、一方では、ホセは頑固にゴンサレスから学んだことを守りつづけたのに対し、マヌエルの作品は軽く、ゴンサレスの影響をほとんど受けていなかった。
ホセの作品は典型的なタブラオ用ギターに見られるように、大型でがっちりしていて、高度に弓型の表面板をもち、主としてフラメンコ用に作られていた。カフェ・カンタンテの全盛時代であった当時、非常に人気があった。
ラミレス家の言い伝えでは、マヌエルは兄の工房で修行していたが、口論をした挙句に二度と口をきかなくなってしまった。
口論の原因は、ホセがマヌエルのパリ移住に同意するとき、ホセの工房で学んだゴメス・ラミレスの工房を継ぐことにあったらしい。
ラミレス家の末裔によれば、マヌエルはパリへは行かず、プラサ・サンタ・アナ5番に工房をもった。
おそらく二人の口論の背後には、単にマヌエルの素直でない態度だけでなく、もっといろいろな事があったと推察される。
若いマヌエルにとっては職人のプライドが関わっていたかもしれない。
その頃はまだ兄の工房にいたが、兄のスタイルよりも、むしろトーレスの方法によるマヌエル独自のギターを製作していた。
そのことはこの時期の彼の作品にはっきり見ることができて、マヌエルは印刷されたラベルの上に細長い紙を貼り、兄の工房の場所である 24 calle Cava Baja という部分を覆っていた。残念ながらその紙片ははがれてしまい、そのすばらしいギターが実際に作られた場所を示してはいない。
それは、その後彼が工房を開く場所であるプラサ・サンタ・アナだったのかもしれない。
このラベルを使用したのは、新しい工房で製作を開始したばかりだったことを示している。
そうでなければ、後のギターのラベルと同じように印刷されたものにしただろう。

マヌエル・ラミレスの作品の歴史的重要性は、どんな情報が得られようともパッチを貼り付けたラベルにあるのではなく、彼の兄弟や同時代の製作家の作品とは完全に異なる製作技法にある。
彼のギターの形状と寸法にはトーレスの影響である軽い設計、スプルース3枚はぎの表面板と8本の扇形力木の採用が見られる。
しかし、そこには兄の影響も多少残っている。駒(ブリッジ)の形状はトーレスのようにオーソドックスな角型ではなく、両端が丸くなっている。
マヌエルにとって、新しい流派は探求への地平線を示すものであり、新たな可能性を与え、後にわかるように、ギター製作に長く輝かしい結果を与えるものだった。
一方、ホセ・ラミレスは断固として彼の製作方法を変えようとしなかったが、マヌエルはごく初期からトーレスの後継者とみなされていた。
新しいギター製作の可能性を探求する彼の意思は、数種の力木の配置、中央の力木の除去に見られる。これはとりわけ3枚はぎの表面板をもつギターに明らかで、ヴィセンテ・アリアスの作品に製作方法の類似がある。
1903年のヴィセンテ・アリアスの作品には中央をはずした7本の力木が見られ、マヌエルの方法の影響である可能性がある。
マヌエル・ラミレスはトーレスのギターに広く接する機会をもっていた。1902年には、現在ホセ・ラミレスIII世のコレクションにある作品を修理し、1908年にはFE30、1912年には1883年製の、現在はパリ楽器博物館に所蔵されている作品を修理している。
トーレスの影響はマヌエル・ラミレスの1912年に美しく製作されたギターに見ることができる。そこには彼によって取り入れられたトーレスの構想のすべての要素があり、トーレスの作品のレプリカのように見える。
このギターは、アンダルシアのギタリストであるゴンサレス・カンポスの依頼で製作された。このことはカンポスがマヌエル・ラミレスにトーレスと同じようなギターの製作を勧めていたことを示唆している。
この作品の形状はトーレスが1880年代の終わりに製作した大型のボディとほぼ同型である。
しかし彼のすべてのギターが特定の完成した型から製作されていたわけではなく、他の製作家と同様に、別の作品には異なる発想を取り入れた可能性もある。
フラメンコギターでは兄のホセに近い方法で製作しているし、他の作品ではトーレスの要素を取り入れている。
彼はトーレスと同じ形の力木、すなわちヤリ型も丸型も使用したし、その数も5から8まで変えていた。
彼のトーレスへの思いは彼の最高級ギターに見られる基本的な構想だけでなく、トーレスが使ったサウンドホールのアコヤ貝の装飾や縁のヒイラギの装飾からの影響も見られる。
1916年2月25日、マヌエル・ラミレスの早すぎる死は、ギターの発達にきわめて重要な時期において最も優れた製作家をギターの世界から奪い去った。
そして今日でもマヌエル・ラミレスがトーレス以来最も影響力のあった製作家であるとみなす人は多い。
彼は繊細で、思慮深く、想像力に富んだ製作家であり、深い洞察力をもってトーレスの原理を追求し、優れたギターを製作するように職人達を鼓舞することができる人物であった。
彼はトーレスの原理をより発展させることに貢献し、多くの優秀な職人を育てた。そうした職人達は20世紀の最も優れたギターを作ることになるのである。
おそらくマヌエル・ラミレスの工房で作られた最も重要な作品は、1912年にヒメネス・マンホンのために製作され、実際にはセゴヴィアに贈られたギターであろう。
そのころセゴヴィアはマドリードのアテネオでのコンサートの用意をしていた。
セゴヴィアはマヌエル・ラミレスの工房に連絡をとり、リサイタルに使うギターを貸してほしいと申し出た。
マヌエル・ラミレスはセゴヴィアが1912年製のギターを弾くのを聴き、その若者はギタリストとして無名であったが、名声が約束されていることを直感した。マヌエル・ラミレスがセゴヴィアにそのギターを見せたときの様子は、彼の寛大さと同時にビジネス感覚を表している。
セゴヴィアは後にこのギターをニューヨークのメトロポリタン美術館に寄贈している。
1991年から翌年にかけて開催されたスペインギター博覧会の際に、私はこのマヌエル・ラミレスとサントス・エルナンデスが製作したギターを詳細に調査する機会を得た。
このギターはもともと11弦ギターとして製作され、セゴヴィアに贈られる前6弦に改造されたと思われる。
ヘッドの裏には穴を埋めた跡があり、ネックの付け根のブロックも、現存するマヌエル・ラミレス/サントス・エルナンデスのものより長く大きい。
ジークフリート・ホーゲンミューラーによると、1912年ごろアルラバン通り11番にあったマヌエル・ラミレスの工房の外で撮られた写真に同じようなギターが写っているという。

サントス・エルナンデスは、職人頭だったが、マヌエル・ラミレスの死により、サントス自身の工房を持つまでマヌエル・ラミレス工房のまとめ役をしていた。
サントスはマヌエル・ラミレスのもとで製作技法を身につけ、セゴヴィアの1912年製のギターを実際に製作したのはサントスであった。
マヌエル・ラミレスからギターを贈られたときのセゴヴィアの話はいくつかの手がかりを与えるものであり、そのギターが一人の職人によって製作されたのではなく、数名によって製作されたことを示している。
そのひとつに、マヌエル・ラミレスがヒメネス・マンホンと価格のことで口論となり、怒って「うちの職人は連携して作業しており、作品はすべての職人達の良心と技術の結晶なのだ。その価値を不実にも引き下げようというのか!」と言ったという話がある。
セゴヴィアは自伝の中で、1912年のギターの由来について更に述べている。「彼の工房の最高の職人達はサントス・エルナンデスに率いられていた。ラミレスはサントスに彼の最上のギターを持ってくるように言った。私はサントスから受け取り、音を出してみる前にそのギターをゆっくりと眺めた。」
セゴヴィアの自伝の後の方には、ラミレスも聴きに来たアテネオ・ホールでのコンサートの後、ラミレスをたずねたときのことが語られている。
「聴衆が熱狂して君に拍手を惜しまないのを見たとき、私は立ち上がって”おいおい、私の方にも多少拍手したらどうだ! 私はこの大成功を少し分かち合う権利があるはずだし、もしそうでないなら、あなた方は今この芸術家に出会い、演奏を味わうことができないかもしれないのだ。”と言いたかった。
コンサートの翌朝、職人達を、とりわけ無口で最高の職人である、このサントスを(と指差して)祝福した。」セゴヴィアの記述にあるように、このときのギターが実際にはサントスが製作したものかどうかは、歴史的に重要な点を含んではいるが、そのことよりもセゴヴィアがこのギターを約四半世紀に渡って使用したことの方が重要である。

エンリケ・ガルシア、ドミンゴ・エステソ、モデスト・ボレゲーロ、アントニオ・エミリオ・パスカル・ビウデスは、マヌエル・ラミレスの工房で修行し、トーレスとラミレスによって改良された現代的なギター製作の原理を学んだ。
サントスはマヌエル・ラミレスの製作法に多少の改良を行った。彼は、表面板の高音側に斜めの響棒を入れたのである。
これは現在もイグナシオ・フレタ、ホセ・ラミレスIII世、ミゲル・ロドリゲスに見ることができる。
エンリケ・ガルシアはマヌエル・ラミレスの弟子であり、ラミレス家の語り部が言うようなラミレス1世の弟子ではない。
マルティン・カステリャノは、エンリケ・ガルシアの最初のギターは師のマヌエル・ラミレスの工房で製作されたと1938年に記述しており、明らかにそれらのギターの1本が1893年のシカゴ博覧会でメダルを得た。
プラトはエンリケ・ガルシアの親しい友人であり、はじめてアルゼンチンへ彼のギターを紹介した。
ガルシアにおけるトーレスの影響は、幅の広い装飾、トーレスの第2期の設計の採用、トルナボスなど随所に見られる。
1914年に製作されたギターのうちの1本はトーレスと同じ装飾が施されている。
それは細部までトーレスの作品とされるギターのいくつかと同一であるが、それはガルシアのオリジナルであることがほぼ明らかになっており、後からガルシアのラベルがトーレスのラベルに貼り替えられたと考えられる。
エンリケ・ガルシアは素晴らしい職人であり、とりわけアルゼンチンで高く評価された。ガルシアの後継者であるフランシスコ・シンプリシオは非常に有能な職人で、ガルシアの経験を学び、時期によってはガルシアと同じ設計と装飾のギターを製作した。彼はまたトーレスモデルを製作し、たびたびトルナボスを取り入れた。
イグナシオ・フレタへのトーレスの影響は、1950年以前に製作された初期の作品に明らかである。
その後、彼は形状を大型とし、斜めの響棒を導入し、力木の本数を増やしたが、基本的な要素はトーレスから得たものである。
1938年製作の作品33番を見ると、そのころフレタがどれほどオリジナルのトーレスに近いギターを製作していたかわかる。
彼はトーレスの設計を採用しただけでなく、材料も同じものを使用し、ヘッドのデザインまでトーレスの影響を受けている。
口輪の中央のデザインは幾分トーレスの流れを感じさせる。フレタはトーレスのギターを何度も修理する機会があり、トーレスギターが優れていることをよく知っていた。彼は死の直前のインタビューで、トーレスに感謝の気持ちを述べている。
今日、その他のスペインの製作家はトーレスの考えをもとに、トーレスの時代にはなかった独自の力木の配置を用いたり、表面板にレッド・シダー(米杉)やオレゴン松やコロンビア松を採用したり、塗装にスプレーを使用してギターを作り続けている。
多くの製作家が一時的な修行の場と考えているラミレス3世の工房でさえ、16年の修行の後にマヌエル・ラミレスが用いたのと同じようなモデルの製作に辿り着くのである。低音側の開いた(表面板に橋かけした)響棒は、今日も依然として多くの製作家が取り入れており、はじめて導入したトーレスへの貢物となっている。

グラナダでは、製作家23人のうち15人は伝統的な製作法に従っており、グラナダにおける最長老のエドアルド・フェレールは、彼の叔父のベニート・フェレールとトーレスによって、改善すべき点はすべて成就されてしまったと信じている。
ドミンゴ・エステソの甥であるファウスティーノ・コンデも、トーレスから発展した方法がマヌエル・ラミレスとドミンゴ・エステソを経て改善の必要がなくなったという、同様の思いを述べている。

フランスにおいては、スペイン派の台頭後は固有の技法が失われかかっていたが、パリのロベール・ブーシェにより再び花開いた。ブーシェはトーレスの方法に深く関わり、独自の方法を見出した。彼はわずかではあるがゴメス・ラミレスの影響も受けている。
19世紀の分岐点において初期のフランスの製作家は、スペイン製のギターの製作方法を取り入れていた。
というのは、それらはそれほど良い作りではなかったが、それでもよく鳴ったからである。
ロベール・フィソールはスペインギターを「信じがたい響き」と言って賞賛している。
フリアン・ゴメス・ラミレスは、19世紀末にスペインからフランスに移って工房を開いた最初の重要な製作家だった。
彼は1938年にイダ・プレスティの最初のコンサート用ギターと、ロベール・ブーシェのギターを製作するという栄誉を得た。
同時に彼はブーシェにギターの製作技法を指導した。フリアン・ゴメス・ラミレスは1879年のマドリード生まれで、フランスでは1922年に工房を開いた。彼はマドリード派の製作家で、ラミレスI世は彼がギター製作の主要な技法を身につけていると評価していた。
しかし、1930年に製作されたギターはラミレスI世の作品とはほとんど類似点がなく、8本の扇形の力木が採用されており、むしろマヌエルの作品に近い。彼は疑いなく、マヌエル・ラミレスから伝授された方法を採用していた。
ブーシェは「フリアン・ゴメス・ラミレスは、パリに工房を構える前にマドリードでマヌエル・ラミレスのもとで働いていた。」と述べている。
1920年に出版されたジャンとコラ・ゴルドンの作品にもゴメス・ラミレスがトーレスの影響を受けたことが次のように触れられている。
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“「いい製作家だ。」とペレスは繰り返した。「マドリードの? はっきり言えば、違う。今は一つの事しかわからない。。。このパリで現在製作している最高の製作家だ。彼の名前はラミレス。
そのとおり、もう一人のラミレスの親戚だ。彼は、より美しく、力強く鳴る、新しい技法を見つけた。
作品はまるで本物のトーレスのようだ。こっちへ来てくれ。彼が古ピアノから取った材料で製作したギターをいくつか見せよう。素晴らしいだろう!”
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ゴメス・ラミレスはパリのアンヴェルス地区にあるロディエ通り38番に店を持っていた。
それはブーシェが生まれた場所であるロシュコール大通り62番から少し歩いた距離である。
ブーシェのギター製作への最初の一歩は1936年、ゴメス・ラミレスの工房で始まった。
ブーシェは、絶えずゴメス・ラミレスに話しかけ、後にギター製作家としての基礎となる技術の詳細を吸収していった。
彼は次のように回想している。
「フリアン・ゴメス・ラミレスについては、1936年に知り合った。彼の工房はモンマルトルの9区ロディエ通り38番にあった。それは原始的で暗いほら穴のようなところで、電気は通っていなかった。通りから数歩の位置だったので、夜は街路の灯油ランプの光が得られた。
信じ難い無秩序のなかで、彼は素晴らしいギターを製作していた。彼は1938年に私のために製作してくれて、そのギターを今も所有している。彼は気さくな人柄で、私は何時間もその”ほら穴”の隅でパイプの煙をくゆらしながら作業をを見守った。
戦争が終わり、何年も経ってから、私がギターを製作するなんて、その時は考えもしなかった。」
工房に関する別の記述としては、ジャンとコラ・ゴルドンのものがある。「ラミレスは、ギターをほとんど道路で製作していたようなものだ。
工房は約10フィート四方で、6フィート幅のドアがついていた。これは真にスペイン風で、現在は確認できないが、10フィート四方が丸ごと下の階のフランス風の建物に突っ込んだ形になっていた。
光だけがドアから入っていたが、そのドアは部屋と同じくらい幅広だった。ラミレスの体は、その入口をふさいでしまいそうにがっちりしており、あごひげの濃いスペイン人だった。ボクサーのような体格をして、繊細に木を削っていた。
彼の背後には、壁に型、製作途中の部品、製作途中のギター、ラウド、バンドゥーリャ、ほとんど知られていないヨーロッパの珍しい楽器がつるされていた。小さな店の後ろの棚には未完成のバンドゥーリャが紐で固定されたままいくつも置かれていて、接着剤が固化するのを待っていた。
ラミレスの工房は我々が考えていたようなものではなかった。
私は、優れた楽器が製作される場所について、大方の人は、整頓された繊細な場所を思い浮かべると思う。ラミレスがもし椅子か馬車の車輪を作っていたのなら、狭い場所ではあったが、それらしく見えただろう。しかし、この雑然とした部屋で、製作が最も難しい楽器が生まれるということは、何をもってふさわしいと言うべきか混乱させられる。」

ブーシェがいかにトーレスに傾倒していたかについては、彼が異なる時期に製作した二種類の楽器に見ることができる。
ブーシェの最初のギターはトーレスのギターをもとにしていたし、4作目のフラメンコギターは、シープレス製のトーレス・ギターのレプリカをめざしていた。
彼は1946年に最初のギターを製作し、数年後に2本のトーレスを修理する機会を得た。
その後、このギターを自身の作品のモデルとして使った。
そのトーレス・ギターは、現在はパリの音楽博物館にあり、ブーシェによってトルナボスが取り外されている。
内部の修理を行うために裏板を取り外したとき、彼はトーレスの響棒の形状や、サウンドホールへの力木の配置など、後に自身のギターに取り入れるトーレスの設計の要素を学んだ。
トーレスの影響はまた、1本の細木に細かく切れ込みを入れたライニングの採用(訳注:横板と裏板との接着補強部分)、先細りにしない(つまり先端を削ぎ落とさない)横棒とそれを支えるブロックの使用、縁を尖らした力木の形状などに見られる。
1960年代の作品では、力木は5本にまで減っている。それはフラメンコギターのレプリカで使用した本数と同じであり、ブリッジの裏側には太い響棒が配置されている。
1952年、ブーシェはギタリストのオーバンが所有するトーレスの修理を依頼され、トルナボスをはずし、弦の張力で変形していた表板を補強するため、力木に変更を加えた。ブーシェは新しい響棒の導入により高く評価されてはいたが、トーレスのアイデアを借りていることを堂々と認めていた。
「私が最初のギターを製作したとき、私が最も敬服するトーレスの設計を採用した。3番目か4番目以降のギターには、オーバンのトーレスに刺激され、低音側に橋かけ型の響棒を採用した。ハウザー1世については力木の配置を調べた事はない。」 橋かけ型の響棒は、1912年にマヌエル・ラミレスが、1930年にはハウザーが採用していた。

1930年代中頃、ドイツのヘルマン・ハウザーがスペイン流のギター製作家として登場したことは、歴史的にきわめて好ましいことだった。
その頃、スペインのギター製作は衰退しかけていた。
スペインは、1920年代の終わりまでは、最高級のギターが生み出されるのにふさわしい土地だと見なされていた。
しかし、それ以降は、サントス・エルナンデスを除いて、スペインは残念なことに世代交代をするための重要な製作家を欠いていた。ホセ・ラミレスとマヌエル・ラミレスおよび彼らの後継者であるエンリケ・ガルシアはすでに1920年代の中頃には他界していた。フランシスコ・シンプリシオはバルセロナで製作していたが、1933年に死亡した。

セゴヴィアにはサントス・エルナンデスの素晴らしいギターを手に入れるチャンスがあったが、彼のあからさまな傲慢さによって実現しなかった。ある時、マドリードに来たセゴヴィアは、サントス・エルナンデスをホテルに来るよう誘い、スイス人製作家(訳注:ビドデーと思われる)が作ったギターを見せた。しぶしぶホテルにやってきたサントス・エルナンデスは、そのギターがマヌエル・ラミレスの工房で自分が製作していたギターの完全なコピーであることに気づいた。セゴヴィアがスイス人製作家を賞讃しただけでなく、前回サントスに注文したにもかからわず彼のギターに何の興味も示さなかったことに、サントス・エルナンデスは激しく気分を害した。彼は、そのギターを決してセゴヴィアに見せなかった。そのギターには、La Inedita(「未発表」の意)と命名され、その名が示すように、弾かれないままサントス・エルナンデスの未亡人が1970年の終わりごろまで所蔵していた。その後、彼の甥によってメキシコの収集家に100万ペセタで売却された。

ギターをすぐれた楽器として確立させる上で、いかにセゴヴィアが貢献したかについては、これまでに多くが述べられ、語られてきた。
このことについて述べるのはこの本の目的ではないが、セゴヴィアの先人および同時代の人達が作り上げた土台を無視することは、アルカス、タルレガ、リョベート、プホール、そしてそのすべてに最も大きな影響を与えたアントニオ・デ・トーレスに対して不当であるということは言っておかなくてはならない。
これら4人のスペイン人ギタリストが、使用したトーレスギターについて語り、彼らの世界中への演奏旅行がセゴヴィアの到着前に道を整えたことは重要な意味をもつ。
セゴヴィアのパリにおける最初のコンサートより前に、ミゲル・リョベートはすぐれた演奏力を示した。
トナッツィによれば、1913年から1914年のリョベートのドイツ訪問は、この国におけるギターの地位を確立するのに貢献した。
これはセゴヴィアが1924年にドイツを訪問し、初めてヘルマン・ハウザー1世に会う10年も前のことである。
セゴヴィアは、ヘルマン・ハウザーの死から2年後、ハウザーへの賛辞の中で、ミゲル・リョベートの仲間によるセゴヴィア歓迎会のときに2度目に出会ったことを詳しく説明している。
それはホテルで開催され、ハウザーも参加していた。彼はセゴヴィアの1912年製マヌエル・ラミレス/サントス・エルナンデスのギターを調べ、寸法を測った。翌日、セゴヴィアは地方のギタリスト達が催したコンサートでハウザーのギターを使用した。
「このギターはハウザー氏が製作したものです。私は入念に調べましたが、すぐにこの素晴らしい製作家の力を予見しました。もし彼の成功が、ストラディバリウスとグァルネリウスによって決められたヴァイオリンと同様に、トーレスとラミレスが決めたスペイン流の製作法を取り入れただけのものであったとしても。」
それらのギターはスペイン流のギターではなかったように思われるが、セゴヴィアは楽器の詳細については述べていない。
それらがどのようなタイプのギターだったか、結論に辿り着くのは困難である。というのは、ハウザーはいくつも異なるタイプのギターを製作していて、指板が表面板と同じ高さのバロック風ギターから2本のネックをもつギターまで、またウィーン風ギターや中央ヨーロッパ風のギターも製作した。セゴヴィアのラミレスギターから注意深く採取された寸法は、セゴヴィアが「我々の時代の最高のギター」と呼んだハウザーギターへの前進の第一段階に貢献したことは疑いない。そして、ついに1937年には完全にセゴヴィアを満足させたのである。

1924年に先立って、ハウザーはリョベートが所有していたトーレス(EF09)に出会っていた。彼はそこから寸法を取ったに違いない。
ジュリアン・ブリームは、1970年にハウザーの工房を訪ねた時、1922年の日付がついた「リョベートのトーレス」の型を見つけたと語っている。
ハウザーは、その後少なくとも2本のギターにこの形を使用している。ブークによれば、セゴヴィアがミュンヘンを訪れるまでに、リョベートのトーレスは音の美しさだけでなく、サウンドホールの下に金属製の筒、すなわちトルナボスを備えていることで良く知られていた。
ブークはリョベートのトーレスの製作技術面に精通しており、のちの記述の中でトルナボスとその技術的な詳細について述べている。”この金属の筒は、古いリュートに見られるサウンドホールの装飾に似ている。サウンドホールの内側に置かれ、裏板との間は3箇所で支えられており、特定の目的を持っていた。それは表面板を支え、弦の張力による変形を防いだが、同時にサウンドホールの下部に置かれる1本の響棒を省略できた。”
ブークはトーレスの作品についてよく知っていた。というのも、彼は1922年には「ラ・レオナ」に出会い、それがトルナボスを備えていることに気づいていた。
また、彼は1924年にセゴヴィアの前でハウザーを弾いたギタリストの一人だった。

ハウザーのギターは、スペイン派の影響により、2種類に分けられる。すなわち、ラミレスのパターンによるものと、ハウザーがわずかな変更を加えつつトーレスのパターンにもどったものとである。
ラミレスにもとづくギターでは、ヘッドのデザインや、力木と寸法の拡大に影響が現れている。ハウザーは、1937年のセゴヴィアのギターを製作した後でさえ、多くの組合せと形状を試していた。
それらのギターのうちのいくつかについては、彼はマヌエル・ラミレスの丸みのある調和のとれた形と、トーレスのヘッド、弦長、装飾とを折衷した。1930年まで、ハウザーはトルナボス付きのギターに影響を受けたが、トルナボスを取り付けるよりも響棒に開口部をつけることによってギターを改良することを試みていた。
しかし、彼は1933年までトルナボスを使うことに固執した。1936年、彼のギターは、形状に劇的な変化を見せ、丸みのあるマヌエル・ラミレスの型から、ずんぐりして幅が広い、多少大型となった。
しかし、表面板は依然としてラミレスと同様、2本の短い力木を底部に対角に配置していた。外見上はヘッドのデザインだけでなく表面板のモザイクや装飾までトーレスによく似ている。
1940年まで、ハウザーのギターはトーレスの作品と密接な関係を見せていた。力木の配置は、トーレスと同様に、指板の末端を頂点として対称形となっている。力木の形状は、3角形となっており、底部の短い力木は長く、トーレスの作品と非常に近い角度で配置されている。
外見もトーレスのデザインに似ており、モザイクはリョベートのトーレスFE09に似ているし、二重の縁装飾もトーレスを思わせる。
ヘッドのほぞ穴の底(ナット側)が平らであることもトーレスの特徴であるが、更に重要なこととして、ハウザーの初期のギターには見られなかった膨らみをもつ表面板がある。これらの特徴は、ハウザーが所有しているトーレスFE13に見られるものであり、これがラミレスからトーレスシステムへの変化を説明していると言えなくもない。
このトーレスは1860年に製作され、プホールのトーレスFE16と同じ設計である。
なお、ハウザーはこのFE16もモデルとして使っている。セゴヴィアのマヌエル・ラミレスがハウザーの進歩に重要な役割を果たしたことは疑いないが、最終的にハウザーにセゴヴィアのためのギターの基礎を与えたのはトーレスのオーソドックスなシステムだった。
この結論は、セゴヴィアのギターに精通する機会を持った2人の人物により裏付けられている。
ジュリアン・ブリームは、セゴヴィアのギターを弾く機会があり、その形状と寸法が疑いなく彼の1936年製ハウザーと非常に似ているのを感じた。
2つ目の確証は、修理の際にギターをよく調べたホセ・ラミレスIII世から得られた。
ハウザーII世でさえ、ハウザー・ギターの基礎がトーレスから生まれたことを認めている。
他の製作家と同じように、ハウザーも時期によって変遷を経ており、その中でいくつかの異なる形状と寸法を使用している。
初期の1930-35年においては、セゴヴィアのラミレスギターの影響は受けていないが、おそらくリョベートのトーレスの影響を受けている。また、ハウザーの大型の形状は1936年以降となっており、トーレスのFE15とFE24の寸法に酷似している。

戦後、アンドレス・セゴヴィアの英国への演奏旅行は、新たなスペインギター熱を引き起こした。
戦後の数年間、真のスペイン音楽を演奏するのに適したギターを得ることができなかったが、このことは少数の熱狂的な人々にギター製作の技法を探求させる原動力となり、その結果、1950年代の半ばにはすでに数人の職人がギターを製作していた。
そのほとんどはトーレスを手本にしていた。1950年代半ばの英国におけるスペイン流の製作家のひとりにヘクター・クワインがいる。
彼は機械のエンジニアをしたり、王立音楽アカデミーのギター教授だったこともあるが、ブリームが1956年に最初のレコード録音を行ったギターを製作した。
スペイン流のギター製作の最終的な弾みがついたのは英国人、ジュリアン・ブリームによってであった。
1960年代半ばに彼はニューヨークでデビッド・ルビオに出会うが、これがルビオとの最良の関係の前奏曲となった。
ルビオはそのとき彼に何本かの素晴らしいギターを製作した。彼はフランシスコ・シンプリシオを手本としていた。

私は1961年、図書館にあったシャープの著書「自分のギターを作ろう」を見て最初のギターを製作した。
そのギターは形に調和を欠いていたが、それがより良い形を求め続けることにつながり、トーレスの寸法で2本目のギターを完成した。
私はそれをメープルで製作し、良い楽器となった。ロンドンのギター教師であったフレッド・ジェームスとちょうどその頃出会い、彼は私の新しい出発を勇気づけてくれた。
彼はそのメープルのギターを買ってくれたが、自動車の中に置いていて盗難に会ってしまった。私は1960年代の終わりまで同じ方法でいくつかのギターを製作した。そのころ私は独自の設計を導入したが、多少はトーレスの方法が残っていた。
1970年、ジュリアン・ブリームは、チェンバロ製作家のマイケル・ジョンソンと一緒に使う工房を提供してもよいと申し出てくれた。
そして、1936年製のハウザーを持ってきて、私に修理を依頼した。そのギターを念入りに調べたことをもとにして、私はスペイン流のプロの製作家としてキャリアを開始した。
でも、その頃は、それがスペイン流であることは知らなかった。
私は、そのパターンを3年間使用し、その後、1949年製のハウザーの寸法に置き換えた。
この1949年の型は、後にリョベートのトーレスと同じ寸法であることがわかった。この型で製作した最初のギターは、ブリームが所有している。
1972年、私はセルジオ・アブレウが1930年製ハウザーを使ったコンサートを聴いた。彼は後にその詳細な図面と寸法を私に送ってくれた。
そのギターは、1936年製ハウザーと同じ内部構造をもっていたが、3本の響棒は開放型となっており、低音側を開放したトーレスを変形したものだった。私が1930年製ハウザーの寸法を用いて最初に製作したギターは、1973年にブリームの所有となり、12年間使用された。
私が初めてトーレスのギターに接したのは1970年代の半ばだった。
その頃まだ1930年製のハウザーのパターンでいくつか製作していたが、トーレスの力木配置と形状による製作を始めていた。
数年間、私はトーレスの製作方法を理解する努力を続けた。そして、表面板をドーム状にすることや、各種の装飾を取り入れた。
私が演奏を聴くことを特に許されていたトーレスギターは、何をもって真のギターと考えるかについて、私に深い印象を残した。
この印象は、ハウザーによって更に強められた。ハウザーはスペイン的な響きを完全に取り入れはしなかったが、にもかかわらず素晴らしい明晰さと変化に富んだ響きをもつギターを生み出した。
二人の製作家は共に、膨らみをもった表面板と、同じようなアイデアによる、極めて軽いギターを製作した。
私は、最大限の範囲で響きを作り出せないギターは完全なギターではなく、重く作られたギターはコンサートギターにふさわしい鋭敏さを生み出せない、と信じている。
トーレスやハウザーおよび、サンギーノ、パヘス一家、マヌエル・ラミレス、ビセンテ・アリアス、サントス・エルナンデスのような過去の製作家の作品を測定するにつけ、とりわけトーレスの作品について、私はスペイン技法の詳細を研究をせざるを得ないと感じた。
私の調査は、トーレスおよびハウザーと同じ道を今もたどっており、25年の製作活動後、私の仕事はこの二人の巨匠の周辺に収束している。
これは今の製作家の多く、とりわけ最近のマーチン・フリーソン、フランク・ハーゼルバッヒャー、ブライアン・コーエン、ケヴィン・アラム、ジョージ・ラブについても同じことが言える。

アルゼンチンにおいては、20世紀初頭にギターが開花しはじめていた。ヒメネス・マンホン、リョベート、プホール、セゴヴィア等が訪れたことは、ギターにとって実り多い素地を作り出し、ホセ・ラミレスII世、マラガ出身の製作家ロルカ・ピーノの弟子であるファンおよびラファエル・ガラン、マヌエル・ラミレスの弟子であるアントニオ・エミリオ・パスカル・ビウデスを引きつけた。プラトによれば、アントニオ・エミリオ・パスカル・ビウデスはトーレスの様式により製作していた。
米国においては、トーレスの影響はアルバート・オーガスチンによって受け入れられた。
彼はトーレスの「秘密」を理解するために、彼の所有するギターを分解したり、最良の時期のハウザーをX線で調査したりした。
彼のハウザーに対する後年の興味は、彼の作品に現れている。この影響は後年、彼の弟子であるフランク・ハーゼルバッヒャーに引き継がれ、ハウザーのパターンが使用されている。マヌエル・ベラスケスもまた、多くをハウザーのパターンで製作している。


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