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第12章 イミテーション(贋作)

偉大な製作家の作品は常にイミテーションの作者を惹きつけてきた。トーレスの作品が、結局難しい鑑定を余儀なくさせるとしても、それは避けられないことだった。
1869年の引退は、もはやそれ以降の新作が現れないことを意味しており、とくに現存するコンサート用のギターは、鑑定眼のあるギタリストにひっぱりだこだった。
この種のギターの不足は、トーレス第2期の制作によって、ある程度解消されるはずだった。
しかし、それでも彼の名声は時とともに高まり、死後、ギタリストと楽器商によって高く評価された。美しく音楽的な楽器は、深い感情を呼び起こすことが可能で、手放すに忍びない持ち主もいた。
彼らは、経済的に非常に逼迫したときになって初めて手放し、相当の金額を手にした。
ビュークによると、ある裕福な家庭が困難な状況となり、娘の愛するトーレス、「レオーナ」を売却した。
その別れを少女はひどく悲しみ、新たな所有者に手渡す日、彼女は喪服を着て目に涙を浮かべ、最愛のギターに別れを告げたという。
リョべートが彼のトーレスの1本を手放すときの、またタルレガの家族が手放すときの悲嘆は、この本の中に何度も述べられている。供給はまったく需要に追いつかず、いつもそのような状況を食いものにする輩のターゲットとなっていった。

この状況で有利な立場の業者に、マヌエル・ソト・イ・ソラレスが居た。
彼はセヴィリア時代にトーレスの隣人で、1868年にマヌエル・グティエレスが40年間のギター製作から引退した際、あとを受けてセラヘリーア通り36番にギターショップを開いた。
ラミレス家からラミレスIII世に伝えられた説によれば、トーレスは自らの響きの基準を満たさない作品をソト・イ・ソラレスに回していたという。
トーレスが、基準を満たさずラベルにサインしたくないギターを廃棄したということはありそうに思えない。
というのは、19世紀の他のギター製作家と同様に、彼も生計を立てるための安価なギターを作っていたことがわかっているからである。
もしトーレスが、最高級品を1番目のラインで、安価なギターを2番目のラインで同時に少しずつ製作していたとすれば、まとめて最終的にソト・イ・ソラレスに回すよりも売却しやすかったはずである。
これについては、言い伝えと一致する説明が存在する。1865年、トーレスはセラヘリーア通り32番の店を捨て、理由はわかっていないが、25番に店を開いている。
彼はそこで内縁の妻と住むようになった。シャワールームがなく、ソト・イ・ソラレスのように訪問客を受け容れるスペースもなかった。
1867年以降の現存するギターは、すべてセラヘリーア通り32番のラベルとなっており、実際の住居で、多分製作もしていた25番ではない。
トーレスはこの時期、どのように製作しているかを公に知られたくなかったため、道の向かい側のソト・イ・ソラレスの店で売っていた、ということもあり得る。
少なくともソト・イ・ソラレスに関連したトーレスの偽物、有名な「レオーナ」の複製が存在するということは、おそらくトーレスがセヴィリアを去ったあと、ソト・イ・ソラレスがトーレスの様式で幾つかのギターを製作したことを示している。

ソト・イ・ソラレスは、トーレスの名前に便乗したメーカーというだけでなく、何度か本物のトーレスとして鑑定されるギターを製作する多くの職人をかかえていた。
とりわけバルセロナで見られる贋作の多くは、すぐれた技術をもつ者によって製作され、オリジナルと同じ寸法であるだけでなく、材質も正しく選択されており、多くの場合、個性的な素晴らしい音が所有者に好まれている。

その他の贋作は、当時の主要なギター工房で彼らのラベルをつけて製作されたが、トーレスギターとの同一性は、1枚のラベル交換という操作によって、本物のトーレスギターへと変身させた。
これは数本のエンリケ・ガルシアとフランシスコ・シンプリシオ、それにトーレスの作品と何一つ共通性をもたないギターについても起こった。製作家がトーレスの作品であると思わせようとして製作する特別な目的がある場合もあった。

マヌエル・ラミレスはその例のひとりであり、その逸話はラミレスIII世によって明瞭に描かれている。
ある時期、彼はトーレスの名声が誇張されすぎていて、完全には受け入れがたいと感じていた。
その名声の一部は、本来もっている価値を正しく評価することができないギタリスト達にもとづいていると彼は信じていた。
この状態は、明らかにマヌエル・ラミレスの仕事の障害になっていた。彼の作品は、トーレスほどには評価されなかったのである。
ラミレス自身は、自分の作品の方が優れているはずだと思っていた。
マヌエル・ラミレスは優秀なギター製作家であると同時に才気に富むビジネスマンだったので、トーレスのギターに対するむやみな称賛と評価がいかに誤っているか証明しようとした。
彼は、トーレスギターに熱狂するギタリストの多くはそれまでトーレスを弾いたことがないまま判断していると考え、どれほど彼らが偏った評価をしているか、どれほど彼が高名なトーレスに匹敵し、越えるほどのギターを製作しているか示そうと決意した。
これを明らかにするために、彼はトーレスの様式で数本のギターを製作し、友人のギタリスト達にトーレス自身の作として見せた。彼のラベルの上にはトーレスのラベルを貼り付けてあった。疑いをもたなかった奏者達はそれらの無類の出来映えを激賞した。
しかし、それはラミレスの話を聞き、トーレスの偽ラベルをはがすまでのことだった。その楽器はまったくトーレスの作ではなく、マヌエル・ラミレスが製作したものだった。
この話によれば、この策略の結果、その日以来、マヌエル・ラミレスはギター製作技術においてトーレスより優れていると見なされることになった。
この策略は、ラミレスがトーレスの様式で数本のギターを製作したばかりでなく、一時的にギタリスト達をあざむくためにトーレスのラベルを作った点で重要な意味をもっている。
ホセ・ラミレスIII世は、この策略のためにマヌエル・ラミレスが製作したギターは、トーレスの型ではなく、自身の型を使って製作されたと断言している。
しかし、ラミレスの最高級品はトーレスモデルであり、ギタリストに彼の作品をトーレス作として受け入れさせる必要があったことを考えると、私はトーレスのギターと同じ外見をもっていたはずだと信じている。
現在、これらのギターがどこにあるかは知られていないが、マヌエル・ラミレスによって製作されたギターのいくつかは、トーレスのオリジナルとして売却されたという記録が残っている。
このことはプラトによる次の説明によって明らかにされている。

「ラミレスは特別なギターを製作し、それはトーレス作として売却された。しかし、彼はこの行為を悪いこととは思っておらず、単にトーレスのラベルをもっているという理由で「木の箱」を高く評価する人々に彼の本当の価値を示すための、製作家として自負から生じた当然のプライドによるものと考えていた。もし不正な売買があったとしたら、悪いのは売却したマヌエル・ラミレスではなく、品性をもった見識ある人々に対して”賢明にも”トーレスへの熱愛をひけらかしたギタリストである。」

コピーモデルが「トーレスの名作」となったすべての原因は、巧妙なラベルと、本当に優れたギターとただの木の箱を見分けられない人々がオリジナルのトーレス作と信じたことにある。
このような売買にはいくつもの実例があり、今日オリジナルなトーレスとされている多くのギターは、実際には誰か別の人の作品である。
トーレスとエンリケ・ガルシアのいくつかのギターには大きな類似性が見られる。
プラトは1910年、パリに工房をもつギタリストで製作家のアグスティン・アンドレスに、トーレスギターを必要なだけ供給できるともちかけられたが、もし用意できないときは、「多くのギタリスト達がしてきたように」エンリケ・ガルシアを代わりに提供するとされている。

贋作の製作は、1860年代の作品に集中している。贋ラベルのうち、第二期のものがひとつだけあるが、残りはすべてトーレスがもっとも精力的だった第1期に属する。
それらの時期に製作された多くのギターは、バルセロナ在住の著名なギタリストのもとにある。
そこは二つの大戦の間の時期にほとんどの贋作が作られた場所である。バルセロナはスペインギターにとって重要な音楽の中心地だった。そして多くのトーレスギターを手に取って見ることができ、今でもバルセロナでは複製品が見つかる。
複製品は、エンリケ・ガルシアやフランシスコ・シンプリシオのような腕のよい職人によって、自身の作品として製作されたが、オリジナルのラベルが失われたとき、その身元は明確でなくなってしまった。
それらはトーレスの設計と様式を継承した、すぐれたギターだったはずである。トルナボスをもち、同様の材料を使用し、装飾さえ同じものだった。形状はほとんど同じだったが、トーレスと完全に同じではなかった。材料は高品質だったが、全体の特徴はトーレスに一致してはいなかった。いくつかの例ではロゼットは同じデザインだが、トーレスの仕事とは大きな差が見られる。1858年製を複製しようとしてうまくいかなかった職人によるギターには、明らかに質的な差がある。この種のラベルをもつギターは少なくともバルセロナ近辺に3本存在する。

他の種の贋作は名工によって製作され、流通させることを目的としたのではなく、トーレスの作品をを追求し、できれば乗り越えたいという願望によるもので、技能的にも音の面でもオリジナルなものである。もっとも卓越した1858年製トーレス(EF08)の複製は、謙虚で優れた家具職人だったバルセロナのE.コルによるものである。3年におよぶ市民戦争の間、コルは内緒で目立たないようにEF08のコピーを作成していた。コルはイグナシオ・フレタがバルセロナに店を持ったときにギター製作の方法を伝授し、設立から数ヶ月間フレタと共同経営していたと言わていれる。

トーレスの名品を複製することは今日でも人気がある。ラ・レオナがルイサ・ソルソーナからドイツのエルハルト・ハンネンに譲渡されたとき、ラ・レオナは修理のためにマルセリーノ・ロペス・ニエトに渡された。
つまりマルセリーノ・ロペス自身のコレクションとして複製を製作する機会があったことになる。
彼のコレクションにはエルナンデス・イ・アグアドやその他の複製が含まれている。

その他の贋作は、無名の職人によって製作され、バルセロナの家具職人だったフェノイの作品のように、現在も流通している。
フェノイはフランシスコ・シンプリシオの息子であるミゲル・シンプリシオのもとでギター製作を学んだ。
彼は自身をミゲル・シンプリシオの唯一の弟子と言っており、トーレスの作品のコピーを製作したことを覚えている。
彼は人を欺くつもりはなく、彼の作品がトーレスと同じくらい優れているはずだと自分自身や他の人に証明しようとしたのだった。
彼はとくに、グラシアーノ・タラーゴの見解にもとづく作品のひとつについてよく覚えている。タラーゴによれば、トーレスのギターとその響きには、けして匹敵することができないのだった。
この見解はフェノイを刺激し、彼はタラーゴが誤っていることを証明しようとした。
彼はトーレスの作品と同じ形状やトルナボス、同じ装飾をもつギターを製作した。
あるラベルはフェノイのラベルと共に貼られていたが、彼自身のものと共に貼られたラベルが何を意味するか示してはいない。
自身のラベルには、彼が修理を施したとある(この例はスイスで保管されているギターに見られる)。このギターはタラーゴがフェノイから購入した。

更に一般的なまがいものは、買い手を欺こうとする意図をもって無名の製作家により製作された。
このようなギターはスペインのアルメリアに限定されてはおらず、他の国にも見られる。
2つのタイプ、つまりスペインで製作された物と、ヨーロッパのとりわけドイツで製作された物は身元を確認できる。
アルメリア周辺で製作されたものは通常、非常に質の悪い材料、粗末な松材を使った表面板、ウォールナットやシープレスを使用した横・裏板をもつ。
一方ドイツで製作されたものは、良質のスプルースを使用した表面板とメープルの横・裏をもつ。
これらの楽器はオリジナルのトーレスとして市場に出回っており、ドイツでは伝染病のように拡がった。1920年代までに、リョべートとプジョールの演奏旅行の跡を追って、ギタリストと同様に、スペインの巨匠達が使用しているのと同じトーレスタイプによるギター製作の需要が拡大した。

ビュークは1928年に、次のように書いている。

「今日、トーレスギターは、すべての真剣なギター奏者に熱望されているか、少なくとも理想的なコンサートギターまたは独奏用ギターとして賞賛されている。そして、このことが本物のトーレスか、それとも優れた複製かを明らかにするのを正当化している。」

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